第5話 幼馴染は救世主①

 高山家にはいくつかの不文律がある。


 その一。ティッシュペーパーを引っ張り出したとき、次の一枚が連動して出てこなくなった時点で新しい箱を用意しておくこと。


 その二。可燃ゴミは父親と翔真、資源ゴミは妹、とそれぞれが分担し通勤通学ついでに持っていくこと。捨て忘れは大変なので、母親への声がけも前日夜に怠らないように。


 そしてその三。相当な理由がない限り居留守は使うべからず。理由は、来客に応じるよりも再配達を依頼するほうが面倒だから。

 インターホンが鳴った際はモニターからの直線距離で一番近くにいた人が必ず応対するべし──


 その日は土曜日だった。休日なので中学生の妹が在宅で、

 

「うーわ、最悪」

 

 二度、三度と鳴るチャイムに、げぇっと嫌そうな顔をする。ドアホンのモニターに近いダイニングテーブルにタイミング悪く座っていたのは、妹だった。

 早く行けと翔真にあしらわれ、ネットサーフィンのスマホが名残惜しそうに妹はのそのそと立ち上がる。


「はい高山……えっ、あっ、はい! はい、すぐ開けます!」


 気だるそうな出だしだったのに、妹の声はみるみるうちに春めいていった。数秒前とも普段とも違う態度で対応したのち、トタトタと玄関へ駆けていく。


 暁だろうな。ソファに寝っ転ぶ翔真は来客主に見当をつけた。結論、その予想はビンゴ。


「来たよー」


 フランクな挨拶、そして立て続けに観音開きの棚が開く音。どちらも玄関から響いてくる。


 ありがとう、いえいえ、とやりとりも聞こえてきた。妹がスリッパを出したんだろう。

 暁は昔から高山家のVIP客で、成長に合わせて買い替えられてきた専用スリッパは現在で五代目。冬になると足裏もこもこボア素材の特別バージョンが用意されたりなんかして、家主様ですか? 春夏秋冬年中通して、翔真はスーパーで買ったぺらぺらスリッパを履いているというのに。


 オーダーメイドみたいにすっかり変形したそれをつっかけ、暁はリビングに現れた。


「どうせ引っ越し準備進んでないんだろうなと思って」

「いや、進歩してる」


 翔真は暁を連れて二階に向かう。


「嘘つかないでいいよ」


 まだ現場を見てもいないのに、と階段を登りながら暁に振り返る。

 嘘つき呼ばわりとは失礼な。まぁその目でしっかりと見るがいい、まさに今生まれ変わろうとする自室を──


「……全然じゃん」


 見えないバリアがあるみたいに翔真の部屋入口で暁は立ち止まると、腕を組んで深いため息をついた。


「これで進歩って」


 小馬鹿にする口調にムッとした。が、暁の肩越しに部屋を俯瞰で眺めてみると、さすがにやばいなと所有主でさえ閉口せざるをえない。


 開いたドアの向こうに広がるのはゴミ袋のブルーオーシャン。

 翔真の部屋はほとんどがベッドに占拠されているというのに、終わらない掃除。


「これ、もっとちゃんと消しとかないと」

「何が?」

「名前」


 部屋に入った暁は、ほら、と翔真に教科書の裏を見せてきた。それは月の始めに設定された廃品回収日で捨てられるよう、これから整理しようと思っていたものだった。


「消してるじゃん」


 個人情報である学年とクラスと名前は黒のマジックで潰してあるのだが、暁としては、


「ううん、爪が甘い」


 らしい。近くに転がっていたペンを取って、黒塗りをさらに上書きし始めた。


 こういうのって塗りつぶされてるイコール見ないでくださいよってことだから、大部分が隠れていればオッケーなんじゃ? どうせ完全には消えなくて、頑張れば下の文字は透けて見えるんだろうし。


 なんてのはズボラの言い訳だろうか。暁に言わせれば雑、になるんだろうな。

 しゃがみ込んでプライバシー保護の作業にあたってくれる暁にそんなことを思いながら、翔真はクローゼットの整理を始める。


 大学入学まで一ヶ月を切っている。つまり、転居はそれより前に迫っている。


 粗大ゴミの手配に各種書類の発行と提出。それらには期日が定められているから厳守だし、同時に進めないといけないのが荷造り。

 加えて親からは教材の処分も命令された。来月から高校生の妹が使いそうなものだけを残してあとは自分でどうにかしろ、という。

 

 無茶だ、無謀だ、部屋は無残だ。そんな状況で降臨したのが暁。まさかまさかの有言実行。

 その訪問は心からありがたいものであった。たとえアポなしでも、多少の小言つきでも。計画性に欠ける翔真だから、暁には頭が上がらない。


「これいる?」


 問いかけに振り返ると、暁が翔真を見上げている。これ、とひらつかせるのは進学模試の問題用紙。高三次のそれは昨日発掘したもので、捨てるかどうか迷っていたのだが、


「あー、いらないわ」

「じゃあ向こう置いとくね」


 素直にうん、とうなずけた。暁に判断を迫られるまで、どうして取捨選択に迷っていたのかわからないくらいに。

  

 暁の選択はいつだって正しい、昔から翔真にはそんな気がしている。

 大人びた子どもは歳月を重ねて達観した青年となり、この男にジレンマや後悔という言葉は似合わないな、としみじみ思うときがある。


 黙々と作業は進んだらしい。手を叩く音が一つ鳴り、完了の合図。


 氏名がぐるぐるぐるぐると上書きされ、持ち運ぶのに適量でわけられた教科書類はビニール紐で縛られていた。その十字には弛みがなく、蝶々結びの余りも均等な長さ。

 さすがは暁、と他人事のように感心してしまう。


 動線の邪魔にならないよう部屋の端にそれらを移動させると、テディベアみたいに暁は足を伸ばした。後ろに手をついて体を支える。

 屈んだ姿勢が辛かったんだろう。同じ骨格をした男だから脱力するのもわかる。


 クッションはどこへ行った、と足元を探していると、


「あ、この前の」


 独り言を暁が呟き、この前の──何、であるかに振り返った翔真は目を剥いた。


 リラックスした姿勢から手を伸ばし、暁が取ろうとするのは漫画──『夜明けを君と過ごせたら』。


 いつかのまま机に置きっぱなしになっていたそれは先日、丁寧に紙袋入りで渡されたものでありながら、翔真にとっては読み進めるにあたってのハードルが異常に高い書物。広辞苑や六法全書、いやそれ以上かも。


「面白いよね。作画もめっちゃ綺麗」


 主人公二人の会話シーンをチョイスして暁が中身を見せてくる。そうだなと翔真が返すまで、結構しつこく。


「俺の役どれかわかった? ソラは──」


 これ、と指さされなくたって把握はしている。黒髪で体の線が細い男。

 不詳の男であるガイに甘い言葉で誘われ、あっさりとその心を奪われてしまう、人を疑うことを知らない純粋な男。それがソラだ。


 適当な位置までページをめくっては手を止め、めくっては手を止めを繰り返す姿に翔真は危機感を覚えた。


 漫画を読んだ形跡があるのだから、暁が次に抱くだろう疑問は──じゃあ何巻まで読んだの?


 実は一巻の冒頭から打ちのめされてしまってなかなか読み進められていないんだ、とはまさか言えまい。


 リアクションを求められたらどうしよう。


 まさか暁がBLに出るとは、が率直なところだがこれもまた本人には言えない。

 というかこれに関しては言いたくない。

 作品のジャンルに偏見を持つ、前時代的な人間の発言みたいで翔真自身が嫌だから。


 幼馴染の俳優が恋愛作品に出る、しかもそれが結構過激そう。


 特殊で複雑な翔真の胸中というのは、同じ境遇にある人間にしか理解してもらえないと思うのだ。今すぐにでもでアンサーがほしいところだが見つけるのは難しい。


 ならばここは、先手必勝。翔真は腹をくくった。

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