第36話 そんなの
「楽しかったの、俺だけだった?」
一緒にいたいと思うのは、俺だけだったの。
涙ながらに、最後に小さく問うた言葉に込められた想いだけは、確かに伝えられた気がした。
ぽた、と透明な雫が、白い真珠のような肌をはねて。
そして。
「……なぜ、貴様は、そんなにも愚かなのだ」
小さく、空間を揺らす声が、聞こえた。
猫乃門が反射的に視線をそちらにやると、億劫そうに瞳を開けて首を動かす蓮がいて。
「――黙っておれば……貴様は化物を斃す栄光を、手にできたものを」
溢れる血の合間から、途切れ途切れに紡がれた言葉に、猫乃門は安堵と、それからちょっぴりの強がりで唇を噛む。
それを彼女に見られないように目の前の身体を掻き抱いた。
「そんなん、いらねえよ、ばか」
くぐもった言葉が蓮に聞こえたのかどうかはわからない。
されど、彼女はそっと猫乃門の頬に手を這わせた。
血のついてない人差し指で、優しく、なでるようにその涙を拭って。それから、小さく口を開いた――。
その時だった。
轟音。
世界を食い破るような轟音だった。
突然ジェット機でも飛んできたかのような凄まじい高音が、身体の内から喰い尽くすように鳴り響いた。
次いで、まるで全身を重力で押し付けられたかのような衝撃が、二人に襲いかかる。
「ッな、んだ、っこれ」
猫乃門がかろうじて呟くが、周囲を劈くような高音がそれをかき消した。
びりびりと小刻みな地震のように、身体が、周囲の建物が、否、空間そのものが震えているのだ。
がしゃんっと破壊音を響かせて、宙に浮いていた猫型の自動追尾カメラがショートした。そのまま地面に激突する。
硬いコンクリートに叩きつけられたそれは、もはやピクリとも動かず、ただの燃えないゴミへと変化した。
蓮はそれを横目で見ながら、何とか重力に逆らうように首を動かす。
そこにはひとつ、異物があった。
穴だ。
黒く、否、それにしては内側は星空のようにきらめいている、一メートル程度の穴。
蓮はそれに、確かに見覚えがあった。
「……ゲート……」
ゲート。この世界でそのように呼ばれている、異世界とこの世界を繋ぐ穴。そして、蓮がその昔落ちた穴だ。
決してこちらの世界からは開くことがないそれが、今ぽっかりと大口を開けている。
「……成功……したのか……」
かつてこの世界に来た異世界人の言葉が、蓮の脳裏に浮かぶ。
『あらゆる人間が内に秘めるエネルギーを一点に集中させたとき、ゲートが現れる』
蓮はそんなもの、信じてはいなかった。ただ『本当の目的』を隠すために使っただけの戯言だ。それは蓮の知る異能の力の原理と違いすぎるのだから。
されど。
――このゲートを通れば、帰れるかもしれない。
――あの女がいた世界へ、帰れるかもしれない。
――あの女の思い出が残る世界へ、帰れるかもしれない。
その思いが蓮の胸中に渦巻いていた。
確かに賭けだ。大きな賭けだ。
けれど今まで0%だった可能性が0.1%でも、今、蓮の方へ傾いている。
気づくと身体に圧し掛かるような重い重力はなくなっていて、耳を劈くような高音もない。
無。
風さえ吹かない夜空の中で、もう一つの夜空が蓮を呼んでいる。
ふらり、と手にした刃を支えに立ち上がって、その夜空を見上げた。
あの女を、赤い瞳の女の幻影を、見た気がした。
レイセン、と自身の名を呼ぶ女を。強くて喧嘩っ早くて、下手で不器用な笑い方しかできない女を――。
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