第35話 楽しかったんだ

 猫乃門獄は、目の前で伏していく女の身体を、その表情を、ただ茫然と眺めていた。


 ――笑っている。


 そう、笑んでのだ、蓮は。

 これまでの歪んだ笑みではない。

 人形のように形式的な笑みではない。

 ただ、安らかに。

 まるで満足したとでも言うように。


 なぜかわからない。

 その笑みの理由はわからないけれども、胸の内で仄かに渦巻いていた疑問が、花でも開くかのようにポツポツと胸中を支配する。


 なぜ蓮はあの日、虎面の人型として初めて出会ったあの日、猫乃門の攻撃を食らったのだろう。

 なぜ誰でも選べたはずなのに、高い治癒の異能を持つ夢兎ゆゆんを引き込む選択をしたのだろう。

 なぜ二日前に選んだあのトンネルを、夢兎ゆゆんが駆けつけられる場所にしたのだろう。なぜ場所を明かしたのだろう。

 なぜ、今日の蓮の刃から伝わる心は、感情は、ぐちゃぐちゃだったのだろう。


 景色が、氷原が、まるで幻影のように消えていく。

 魔法の効力が切れていく景色を横目で見ながら、暗く、切れかかった電灯だけが灯る道路に横たわる蓮に近づこうと、身を動かした。

 足をなんとか奮い立たせて、血が零れる傷口を手で覆いながら、ぼんやりとだけ見える蓮の元へと。


「……なあ、何で、笑ったんだよ」


 ずり、ずり、と足を引きずりながら、うわ言のように問う。


「お前、本当は……何、考えて、たんだよ」


 呟いて、伏した蓮の元へ力尽きたように座り込んだ。

 白く、美しく、死んだように目を閉じる蓮の頬に、そっと触れる。


「なあ、蓮」


 掠れた声で名を呼んだ。


「お前、死ぬ気だったのかよ」


 声に出した瞬間、溢れんばかりの涙が猫乃門の瞳に浮かんでいく。


「だって、おかしいだろ……おれが、こんなんで、お前を倒せるわけ、ないじゃん……。ぜんぶ、ぜんぶ、おまえは……」


 流れた涙が、ぽつりと蓮の頬を打つ。彼女の胸の傷から溢れ出る真っ赤な血が、電灯の光に照らされてゆらりと揺れた。


「……本当はお前、ずっと、後悔してたんじゃ、ねえのか、あの日のこと」


 猫乃門は思い出していた。

 蓮と戦闘を重ねる中で、虎面の人型たる彼女と戦ったあの瞬間のことを。彼女と最後に刃を交えたあの瞬間のことを。自身の片目を斬りつけたあの瞬間のことを。


 あのとき、掠れた視界の中で見た虎面は、血塗れで地に伏した猫乃門に、確かに動揺していたのではないか。動きを鈍らせていたのではないか。

 だからこそ、あの時だって最後に、あの不意打ちのような攻撃が通ったのではないのか。


「だから、……っだから、おれは、お前に傷を負わせられたんじゃねえのか……」


 だからこそ、ただの人間である猫乃門の攻撃が、伝説級とすら評される彼女に通ったのではないのか。

 そうだとするのなら、今目の前で再び伏した彼女の真意は、目的は。


「お前の、本当の目的は……『化物として俺に殺されること』……そうじゃねえのか……!?」


 蓮は何も答えない。ピクリとさえ、動いてはくれなかった。

 零れ落ちる涙はただ彼女の冷たい皮膚の上を流れ落ちては、真っ赤な血と交じり合っていく。


「……俺、楽しかったんだ」


 いつか優しい少女の前で、伝えきれなかったことを吐き出したあの日のように、猫乃門は何とか言葉を紡ぐ。


「たのしかったんだ、お前と一緒に、過ごすの。俺はずっと、自分のことばっかりで、でもお前が一緒に色んなこと、やってくれたの、ほんとは、ずっと」


 もはや言葉は支離滅裂で、文章として成り立っているのかすら猫乃門には分からなかった。

 頭はくらくらしていて、息は苦しくて、身体は痛くて、口の中は血がせり上がってきて気持ち悪いし喋りづらくて、それでも。

 それでも。


「楽しかったの、俺だけだった?」


 一緒にいたいと思うのは、俺だけだったの。


 涙ながらに、最後に小さく問うた言葉に込められた想いだけは、確かに伝えられた気がした。

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