第34話 諦めろ、人間

 けれども、それは届かなかった。


 大鎌を振り上げた瞬間を見定めたかのように、その隙を逃すかとでも言うかのように、あるいはもう飽いたとばかりに、蓮は大太刀を猫乃門の腹目掛けて刺し穿った。


 ぎゅおっ、と風を切る鋭い音がするとともに、それは目にも止まらぬ速さで防御のない、薄い腹の肉を引き裂き、食い込んだ。

 ぐちゅ、と嫌な音がした。再びゴボリと吐き出された血が、液体が、氷の大地を濡らしていく。


「……が、ッゥあ」


 からん、と大鎌が彼女の手からすり抜けて、氷地を叩く音がした。


 最早、猫乃門には痛みに泣き叫ぶほどの気力すらなかった。

 激痛があるはずなのに、それ以上にただ息苦しさだけがあって、喉がヒューヒューとおかしな音を立てるのがやけに大きく聞こえる。

 視界は先ほどよりもさらにぼやけていてよく見えない。

 自分が立っているのか伏しているのかもわからなかったが、腹に刺さった刃を引き抜かれた衝撃と脳の揺れで、今しがた地に伏したのだとわかった。


 視界の端の白が、赤く染まっていく。猫乃門の水浅葱色をした大鎌も赤く。

 赤く、まるですべてを赤で染めるかのようにじわりじわりと広がっていく様子を、猫乃門は――そして蓮もまた、ただ見ていた。


 蓮は刃にこびり付いた血を払うように大太刀を振るうと、それから一歩、また一歩と伏した猫乃門へ歩みを進める。

 カツン、カツン、とヒールが静かに氷を打つ音が、やけに大きく響いた。


 それに猫乃門は妙な既視感を覚える。

 否、同じなのだ。

 かつて虎面の人型と戦ったときと。

 この目の傷を負ったときと同じような、明確に死が近づく音。


「ようやく貴様の顔も見納めかと思うとせいせいするよ、猫乃門獄」


 蓮の声色にやはり感情はなかった。悲しみも苦しみも、最早怒りさえどこかに置いてきたかのような声だった。


「おそらくは、何の能力(ちから)も持たぬ人間にしてはよくやった、と褒めてやるべきなのだろうな」


 カツン、と響いた足音を最後に、その歩みが止まる。


「だが、所詮は人間だ。もう一度貴様に言ってやろう」


 伏した頭を見下ろすように立った蓮は、ゆっくりと。ひどく緩慢とすら思えるような動作で、再び大太刀を構える。

 目の前の首に目掛けて、そのぎらりと鈍い光を放つ切っ先を向けた。


「『諦め、人間。自分には無理や』」


 それはかつて、虎面の人型としての蓮が猫乃門に言った言葉。


 諦めろ。戦闘人(バトラー)は諦めろ、本業など諦めろ、再復帰は諦めろ、人間では無理だ。


 何度も言われてきた言葉。何度も告げられた真実。何度も自身で繰り返した呪い。


『俺は、ただの人間なんだから』


 そうだ。人間だ。だから無理だった。化物相手に戦うことなど、あろうことが勝つことなど、人間である猫乃門獄には不可能だった。

 諦めるべきだった。最初から、すべて。


 すべて――。


『もっと人間であることに胸を張れ小娘。人間でありながら、異能の前に立ち続ける強さを』


 頭の中で響く声を断ち切るように、風を斬る音が聞こえた。


 蓮が猫乃門の首元目掛けて大太刀を振り上げる。

 蓮の言葉は嘘だった。偽物だった。

 それはただ猫乃門を懐柔したいがための甘い嘘で、彼女の本心ではないらしかった。


 けれど、けれども、傷ついた心がいつまで経っても胸の隅っこで燻っているように、


 救われた心もまた、そう簡単に消え去ってはくれないのだ。


 どすん、という衝撃とともに――――“蓮の身体”が揺れた。

 蓮にとって、それは既視感のある衝撃だった。ゆえに彼女は反射的に、その視線を自身の胸へと向ける。


 刃が、三日月の先端のような刃が、背から胸の真ん中に突き刺さっていた。

 その先を辿れば、目の前の伏した女の腕へとたどり着く。


 じわじわと蓮の胸の中心から赤い染みが広がっていくと同時に、せり上がる血生臭い液体をごぼりと吐き出した。

 蓮が振り上げた手から、がらんと刀が落ちて氷を打つ音が虚しく響く。


「……わりいな」


 目の前で今にも死にそうな姿をした女が口元に笑みを浮かべながら言った。


「諦められねえのが……俺の、弱点の一つだ」


 その姿に蓮は、否応なく彼女と初めて邂逅したときを重ねた。

 初めて――虎面の人型として刃を向け合ったあの時。

 異能を持った者たちでさえ何十人と伏し、怯え、目を背ける中、しかし何の異能も持たないこの女だけが自身の前に立ち塞がったのだ。

 立ちふさがり、最後に初めて自身に手傷を負わせたのだ。今この時と同じように、笑いながら。


 蓮は思わず、口角を上げた。

 どすり、と刃が抜けた衝撃で身体が空を向く。眼前には雲ひとつない、水浅葱の空が広がっている。

 それを見ながら、小さく目を細めた。


「……まったく、どこが弱点だ」

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