第37話 さらばだ
あの女を、赤い瞳の女の幻影を、見た気がした。
レイセン、と自身の名を呼ぶ女を。強くて喧嘩っ早くて、下手で不器用な笑い方しかできない女を――。
しかし、それは唐突に霞む。
霞んで、滲んで重なって、違う人間の像を描き出す。
『蓮』
呼ばれた気がした。隻眼の女に。
あの赤い瞳の女が呼ばなかった呼び方で、呼ばれた気がした。
反射的に、振り向いた。
けれど、女は呼んではいなかった。引き留めることも、繋ぎとめることもせず、ただ蓮が選ぶ道を見守っていた。
たぶん、引き止めないのだろう、と蓮は察した。
彼女の功績のために選んだ道からは引き止めるくせに、こういうときは引き止めてはくれないのか、と内心苦笑する。
知っている。短い間だったが、己が生きた時間を思えば氷原に垂らした一滴の水に等しいほどの短い時間ではあったけれども、確かに猫乃門獄とは、そういう女だった。
きっとかつてなら踏み出していた。迷うことなく、その夜空に、宇宙に足を踏み入れていただろう。
けれども。
――けれども、蓮は選ばなかった。
宇宙に背を向けて、隻眼の女を見やる。
きっと目の前の隻眼の女に、あの赤い瞳の女が重なるのではなく、赤い瞳の女の幻影へ、隻眼の女が重なった瞬間から、もう選ぶ道など決まっていたのだ。
『じゃあな、レイセン』
ふ、っと、風のささやきのように声が聞こえて、思わず振り返る。
夜空のような、宇宙のような黒髪を携えた女を、そこに見たような気がした。
記憶の中の女ではなく、レイセンの中にいる女ではなく、かつて誰よりも愛しかったその女の姿を、そこに見たような気がした。
――ああそうだ……そうだった。
蓮は思わず、零れそうになったものを堪えるように笑みを浮かべた。
――貴様はそういう笑い方をするんだった。
自身の内に閉じ込めていた彼女が、否、自身の内で作り出していた彼女が、解き放たれたような気がした。
だから蓮はそっと微笑む。かつて彼女に向けた表情と同じ笑みで。
――さらばだ、世界で一番愛したひとよ。
胸の内で呟いた言葉が、風に乗って流れていく。
そのとき、ようやく、彼女に別れを告げることができたような気がした。
***
「……蓮」
再び宇宙へ背を向けた蓮へ、猫乃門が小さく呼びかけた。
それに応えるように蓮は微笑む。
そして小さく口を開いた、瞬間だった。
再び全身を押さえつけられるかのような力の圧が、二人に襲いかかったと同時に、黒い何かが蓮の背後に迫った。
「蓮ッッ!!」
蓮の名を叫んだ猫乃門の声と、蓮がその“何か”に刃を向けたのは同時だった。
「――――ッッ!!!」
しかし、遅かった。
振るった刃は空を裂き――、否、空を飛んだ。
弧を描いた刃に、真っ赤な血が飛び散って鈍い光を汚す。
あふれ出る血しぶきと共に、彼女の刃がその腕ごと宙を舞っていた。
「――がっっァアア、っ!!」
反射的にびちゃびちゃと血が流れる腕の断面を手で押さえる。
指の隙間から滝のように生暖かい血が溢れ出るのが感覚で分かった。
脳内をのた打ち回るような痛みが支配して、もはやかろうじて立っていただけの彼女はそのまま気絶してしまいたくなる。
けれどもそれを理性で押しやって、痛みを殺す。
殺せない。
否、殺す。
殺して、奥歯を噛み砕かんほどに噛みしめて、蓮は目の前の“何か”に視線を向けた。
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