第32話 猫乃門獄はわからない

「――どうせ死ぬ者に、理解など必要なかろうしな」


 まるで時間が切り取られたかのように、あまりにも一瞬の出来事だった。

 一瞬で、鋭く白い刃が、猫乃門の眼前に迫った。


 しかし、それを寸でのところで避けて、猫乃門は距離を取る。黒と水浅葱色の髪がはらはらといくつか舞った。


「今のを避けるのか。大した反射神経だ」


 蓮が感心したように呟く。

 ついでブォンッと軽く一振り、大太刀を振るった。

 それは鋭く風を切り、反動でみしり、と傍にあったビルほどはあろうかという氷塊にヒビが入る。


 びきバキびき、と。

 ヒビは次第に広がり、やがて地鳴りのような禍々しい音を響かせた氷塊は、いとも容易くその身を砕き、まるで割れたガラスのように自身を崩壊させた。


 けたたましい轟音と共に、冷気の爆風がごおっと二人の身体に吹き付けられる。

 片腕でその風から身を庇いつつ、チッと猫乃門は思わず舌を打った。

 明らかに人間ではないものと戦っているという実感が、ようやく身に染みたからだ。


 人間ではない領域。人間では至れない場所。そこに易々と到達する者(化物)。


 目の前の彼女こそが、鬼がごとくに口元を歪めた彼女こそが、正しくそれであった。

 轟ッ! と再び迫りくる大太刀を受け止める。

 そのあまりの重さに、刀身がミシ、と音を立てた。顔前まで迫る刃をかろうじて押しとどめるが、両腕の筋肉へはち切れそうなほどに負荷がかかっているのがわかる。


「ぐ、ぅっ!」


 撫でるように刃を弾かれて、再び光速のような素早さで捌かれる攻撃をほとんど反射で受け止める。

 斬って斬られて受け止めて、その刃を合わせる度に、痛みと共に飛ぶ血飛沫を見るたびに――猫乃門の脳裏に、目の前のそれと似て非なる景色が浮かぶ。


 目の前の彼女は虎面を被っていた。

 思い出していたのだ。かつて刃を交えたあのときを。“虎面の人型”と“戦闘人”として、はじめて刃を交えたあのときを。

 高い金属音が響くたびに、あのときの記憶がフラッシュバックするように、目の前の景色と重なって鮮明になっていく。


 あのときも虎面は笑っていた。

 口元だけを晒した仮面の下で、ありありと、ひどく愉快なことが起こったとでもいうように。

 あの頃の猫乃門は体力も経験も今より劣っていたがために、もはや意識などなくただ刃だけを振るっていたが、しかし。しかし、思えば自身も口角を上げていたような気がする。


 そうだ、笑っていた。愉しかったのだ。刃を交えるあの瞬間が。本気で振るう刃が軋んで火花を散らせるあの瞬間が。

 蓮も同じだったのだろう。合わせた刃から感じるそれは確かに――。

 けれども。それなのに。


 目の前の蓮からは、何も感じ取れない。分からない。

 蓮がその胸中に抱えている感情が、何も分からない。

 先日戦った虎面とは異なる。無ではない。ただぐちゃぐちゃになった胸の内が、交えた刃から伝わってくる。


 ――今の方が、何考えてんのかわかんねえよ。


 奥歯を噛み砕かんばかりに噛み締めて、顔を歪めた。同時に悲鳴のような音を立てて刃が弾かれ、二人の間に距離ができる。

 すとん、と身軽に氷の上に降り立った蓮を。大鎌を、武器を隔てた先にいる蓮を、縋るような目で見た。


「……お前のこと、わかんねえよ」


 猫乃門が、ぽつりと呟く。


 わからない。猫乃門獄はわからない。

 彼女の脳裏にこの数週間の蓮が、まるでシャボンのようにパチパチと弾けていく。

 いつか『相棒だろう』と言った言葉が、『自らを誇れ』と鼓舞した声が、いつか自身に笑いかけたあの表情が、全て演技だとは、猫乃門には決して思えない。


 化物のような力を持っていても、その心は決して化物ではなかったはずだった。


「……お前、言ったじゃん。『人間である自分を誇れ』って……だから俺、勝てたんだぜ。立ち上がれたんだぜ……。……『相棒だ』って、お前、言ってたじゃん……」


 猫乃門は震える声と込み上げる涙を押しとどめるように、柄を握る。その全てを受け止めるように力を込められた手には、血が滲んでいた。


「俺とお前は相棒なんじゃねえのかよ!!」


 心から叫んだ声は、しんと静まり返った氷原の地に響いて解けた。

 けれども、蓮の表情は何ら変わりはしなかった。まるで爬虫類のように、蛇のように、冷たくて鋭い瞳。それが射抜くように猫乃門を見る。


「甘いな」


 ようやく紡がれた一言は、そのような刃にも似た言葉だった。


「甘すぎるぞ、小娘。私が何千年何万年生きてきたと思っている? 人間如きが、この私と対等になれると本気で思っていたのか! 私と肩を並べられる者はもういない! 全てあの世界に置いてきた! 否応なくな!」


 先ほどまではこの世界に満ちた氷のように冷たかったその声が、瞳が、怒りという激情に支配され、燃えていく。

 しかし、猫乃門はそれに飲まれはしなかった。


「ッそんなん、知らねえよ! 俺お前のこと何も知らねえもん! 好きなものも、得意なことも、本当の名前だって、きっと知らねえ……。だから、だから教えてくれよ……! こんな方法じゃなくて、もっと別の方法で、解決したいんだよ……!」


 泣きそうな声で零れ落ちた願いは、されどやはり目の前の女には届かない。

 再び怒りを氷の中に隠した瞳で、蓮は見下すように猫乃門を見る。


「ハッ、なるほど……貴様は希望を抱いているわけか。対話によって和解できると」


 猫乃門の言葉に呆れさえ滲ませたように、彼女は鼻で笑った。


「いいだろう。この際だ、教えてやろう。私がなぜこのような回りくどい復讐方法を選んだか。その本当の理由をな」


 蓮は冷ややかな声色をして告げると、その場から跳んだ。

 そのまま宙に浮いた自動追尾カメラを手に取ると、魔法陣の上に浮かんだ彼女はその画面を見せるように猫乃門へ向けた。


「見ろ」


 そこには今カメラが映し出している氷原と小さな猫乃門の姿、時刻、接続状況、コメント数、そして。


「50万人だ。50万の人間が、あるいは人間外の何かがこの光景を見ている。意識を一つに集中させている。この意味が分かるか」


 猫乃門は思わず眉間にしわを寄せる。突然何の話をしているのか、彼女には皆目理解できなかった。

 それを察したのだろう。蓮は呆れたように目を細めてから、続けて。


「『あらゆる人間が内に秘めるエネルギーを一点に集中させたとき、ゲートが現れる』」


 猫乃門は瞳をこぼしそうなほど大きく見開いた。その一言で察せぬほど、彼女は愚かではなかった。

 それはかつて、この世界に初めてゲートを通ってやって来た異世界人が発した言葉だった。


「お前……ゲートを開ける気なのか……!」

「ようやく気づいたか」


 蓮は小さく笑うと、カメラから手を離して演説でもするかのように片手を広げた。


「『あらゆる人間が内に秘めるエネルギー』。すなわち意志、感情だ。そしてそれは悪意だって構やしないのさ」


 感情――。

 今蓮が持つ画面の先には50万の、怒り、憎悪、希望、期待、悲しみ、愉悦――あらゆる人々の思惑と心が束になって、この瞬間に。蓮と猫乃門のこの瞬間に向けられている。

 それら全てが一つのエネルギーだとしたら。

 猫乃門は苦し紛れに歯噛みしてみせる。


「……そんなの、ただの仮説だろ」

「どうかな? 試してみなければわからないだろう。こうやっていく内にも人の数はどんどん増えるぞ。今のでもっとブーストが掛かったかもな」


 蓮はニヤリと美しい顔に歪な笑みを浮かべると、ひどく愉しそうな声色をして言う。


「これでわかっただろう。私が貴様に親愛など向けていなかったということが。貴様と出会うこと、手を組むこと、復讐を持ちかけること、夢兎ゆゆんと出会うこと、それら全てが、貴様が何を望み欲しているか、全て調べた上で立てた計画ゆえなんだよ」


 そして蓮は手に持った氷の大太刀を器用にくるりと回すと、その切っ先を猫乃門へ向けた。


「貴様の思い描いていた道筋はこうだろう? 私を説得し、和解し、ハッピーエンド。だがそうはならない。貴様の選択肢は二つ。私を殺すか、私に殺されるかだ!」

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