第31話 氷のような

●第四章


 ざあッと闇の中で、草木が揺れる。冷気すら交るような風だった。

 九月の風にしてはいささか冷たすぎるそれが、まるで真っ暗なカーテンでも下ろしたかのような世界を覆っている。


 猫乃門は窓からその風を浴びながら、ふと時計に目をやった。

 19時50分。

 そろそろだ、と思う。もう少しで、おそらく蓮が猫乃門を殺しに来る。

 背に武器であるプラスチックケースの重みを感じながら、無意識のうちに眉間のしわを増やした猫乃門を、夢兎は心配そうに見つめていた。


 その時。

 ゴゴゴゴゴッッ!! と、まるで地を揺らすようなけたたましい音が、揺れとともに猫乃門たちへ襲いかかった。


 一瞬、地震なのかと思った。けれども、二人はすぐに違うと気づいた。


 氷だった。

 まるで景色が塗りかわるように、すべてが氷に呑まれ、崩れ落ち、世界が氷原の彼方へと一変していく。


「猫さんッ!」


 声がした方へ反射的に視線をやった。まるで猫乃門と夢兎を分断するように――否、夢兎だけを排除するように、彼女が氷の壁に呑まれ、遠ざかっていく。

 バキバキッとまるで一種の芸術品でもあるかのような、あるいは凶悪な獣の牙でもあるかのような氷が、夢兎と猫乃門の間を阻むように閉じられる。


「ゆゆんちゃんっ!!」


 手を伸ばそうとしても、無駄だった。猫乃門の腕を制するように、彼女の前へ人の背丈ほどありそうないくつもの氷柱が、明らかに意思を伴って降ってきたからだ。


「ッく……!」


 猫乃門は氷柱を避けるように数歩退くと、背のプラスチックケースから大鎌を構築しつつ宙へ目をやった。

 そこには、氷でできているらしい、やけに仰々しく厳かな椅子の上で足を組んでいる蓮がいた。

 椅子の下には緑色の魔法陣が敷かれていたため、おそらくはそれによって、その芝居がかった芸当を成せているのだろう。


 そして何より、その頭部には鬼のような角が二つ、青のような紫のような光を発している。

 それはまさしく、異形のそれであった。『虎面の人型』のそれであった。


 蓮はひどく余裕ぶった表情で頬杖を吐きながら、猫乃門を見下ろしている。

 彼女の傍には猫型の自動追尾カメラが控えていて、宙に浮かんだコメント欄からまさに今配信中であることを悟った。


「やあ、獄(ひとや)」

「テメェ! ゆゆんちゃんをどこへやった!?」

「彼女は邪魔だからな、『外』へ出てもらった。それに彼女が使う治癒の力は厄介極まる」


 蓮は一切怪我の痕跡などないように見える猫乃門の様子を眺めながら、肩を竦めた。


「……ここは、どこなんだ」


 猫乃門はぎろりと蓮に鋭い視線を送りながら、周囲を横目で見る。

 まるで南極にでも放り込まれたかのようだった。地面も建物も草も木も、すべて氷塊に変わっていた。


 ただ遠くに氷でできた伝統的な和風建築があり、それだけが南極という要素から外れている。

 それを加味すれば、どこかのファンタジーな国の景色をそのまま持ってきたかのように見えた。


「場所は同じだ。貴様が立っている場所はあのみすぼらしい八畳間から何も変わっていない。ただ認識が変わっただけだ。これはそういう認識に作用する力――貴様らの言葉で言うのなら、魔法だな」


 蓮はそれからカメラへ視線を向けると。


「カメラの前に居る貴様らも同じことだ。同じ空間、同じ時間に居るかどうかは問題ではない。◆◆◆はそんなものは容易く飛び越える。だからこそ、貴様らの目にもこの世界が氷原に見えているはずだ」


 異国の言葉のような、発音が聞き取れないような言葉が混じる。

 おそらく、文脈から察するに、蓮の世界における力の動力源を示す単語だろう。言い換えるならば『魔力』だろうか。


 だが、蓮は特段それを気にしない。説明する気もないようである。

 カメラから目を離した蓮は徐に立ち上がると、氷でできた椅子がボロボロと崩れていく。その代わりとばかりに、彼女の前に階段が生み出された。


 透明の氷でできた階段であった。

 カツリカツリ、と静かに、リズムでも刻むかのように彼女のヒールがそれを踏み鳴らす。


「そもそも、物なんてものは全てこの認識による。名をつけて、初めてそこにあるものを観測できる。曖昧模糊な何かから実在を得る。私にとっての、あるいは貴様にとってのな」

「……何言ってんのかわかんねえよ」


 そっけなく返した猫乃門に、蓮は笑った。嘲笑というには、あまりにも形式的で美しい笑みだった。


「それならそれで構わん」


 カツ、と蓮が氷原の地に降り立つ。さらさらと消える透明な階段が彼女の元へ戻るように、その手に集まっていく。

 氷のような、あるいは光のような粒子は、まるでコンピュータから出力されるように、その先端から形を成していく。


 刀だった。

 氷の刀。大太刀のように彼女の身の丈を越えるそれが、凍ったように白い手の中に形成された。彼女はともすれば芸術品のように美しく重々しいそれを易々と構えると。


「――どうせ死ぬ者に、理解など必要なかろうしな」


 ――まるで時間が切り取られたかのように、あまりにも一瞬の出来事だった。

 一瞬で、鋭く白い刃が、猫乃門の眼前に迫った。

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