第30話 俺、ずっと

 ふ、と猫乃門が目を覚ますと、そこは見慣れた天井だった。

 毎日見ている、古ぼけた白い天井。築三十年の八畳間の一室、すなわち我が家の天井だと悟るのに、そう時間はかからなかった。


 同時に、それにどこか既視感を覚える。そういえば以前もこれと同じことがなかったか。

 そうだ、あの時は確か虎面にこてんぱんにやられて、それを蓮が助けて――。


「ッ蓮っ!」


 思わず叫んで飛び起きた。

 目の前にいたのは、蓮とは真逆の、小さくて可愛い女の子だった。


「……大丈夫ですか?」


 夢兎ゆゆんは心配そうに猫乃門の瞳を覗き込む。


「……あ……ごめん……。大丈夫だ」


 夢兎はそれを聞くと、まるで猫乃門を元気付けるようににこりと微笑んだ。


「それは良かったのです。でも、まだ万全ではないから気をつけてなのです。大きなケガは治したから大丈夫だとは思うけど……」


 猫乃門が視界の端にうつる時計を見ると朝の六時で、どうやら彼女が寝ずに看病と治療をしてくれていたらしいということを悟った。


「……ゆゆんちゃん、ずっと看病してくれてたのか……? ほんと、ありがとな」

「これくらい大丈夫なのですよ。言ったでしょう? わたしは誰かを治す魔法の方が得意なのです」


 えっへん、と胸を張って見せる夢兎に、猫乃門は表情を緩ませる。

 彼女の優しさが、あまりにもあたたかかった。

 けれどもそれを実感するほどに、そのあたたかさをもってさえ埋まらない心の傷を意識せざるを得なかった。


 夢兎もそんな猫乃門の様子に気づいたのだろう。あるいは、この話題は避けては通れないと考えていたのかもしれない。

 だからこそ、夢兎は先に口を開く。


「……猫さん――、あなたは蓮さんを討たなければなりません」


 夢兎の、彼女にしては随分と厳しい言葉に、猫乃門は思わず唇を噛みしめる。

 足の上に置いた拳を握りしめた。そうやって必死に、必死に押しとどめようとした。

 湧き上がる感情を、言葉を、雫を、抑えようとした。


 けれども、できなかった。

 ぽた、ぽた、と小さな雫が、彼女の血が滲みそうなほど握り締められた拳の上に落ちる。


「……俺は、アイツとは戦えねえよ……。できるワケねえじゃん、アイツは俺にとって、もう、倒すべき敵じゃねえもん……」


 そうだ。ムリだ。

 蓮は確かにあの時『互いに仇だ』と言ったけれど、猫乃門にはもうそうは思えない。

 あの日痛めつけられたことより、胸の傷より、失った右目より、蓮に対する想いが勝ってしまっている。

 騙されたことも、再び痛めつけられたこともすべて凌駕してしまえるくらい、蓮がくれたものが猫乃門の心を埋めていた。


「俺にとって、アイツは『虎面の人型』じゃなくて……蓮なんだよ……」


 正体を明かされても、全部嘘でも、裏切られても、それでも、猫乃門にとって蓮は最早“蓮”であった。虎面の人型ではない、蓮なのだ。

 それなのに、どうして戦うことができようか。


「……俺、ずっと楽しかったんだ」


 猫乃門が、ぽつりと呟くように零す。


「今まで画面の外で、コンビ組んだりチーム組んでるヤツらのこと、ずっと楽しそうだなって、思ってたんだ。でも、俺は人間だからさ、多分ムリだろうなーって……なんとなく思ってて……」


 ただ画面の外で、世界の外で活動している人たちを見ているだけだったことを、猫乃門は思い出す。

 別に拒絶されたわけではない。それなのに、彼らと関わりを持とうとしなかったのは結局、猫乃門獄自身が己の劣等感と向き合えなかったからだ。


「だからさ、蓮が俺とコンビ組んでくれるってなったとき、嬉しかった。復讐を手伝えって言われたときもさ、復讐って言葉は重てえし、あんま明るいもんじゃねえんだけどさ、でも、俺は嬉しかったよ……。あぁ、俺でいいんだな、って。俺と組んでくれるんだなって……思ってさ……」


 人間には無理だ。人間にはできない。君はただの人間なのだから。

 そういう言葉を上辺だけで撥ね退けてみても、結局猫乃門獄は向き合えていなかった。


『お前は、ただの人間なんだから』


 その言葉がずっと脳裏を掠めていた。


 ――いいや、そうじゃねえ。


 猫乃門は、否定するように胸の内で呟いた。

 そうだ、違った。違っていた。本当は、本当に心の奥にあった言葉は。


『俺は、ただの人間なんだから』


 そういう自分の言葉だ。最後に残った己のその一言を、払いのけることができなかったのだ。

 けれども蓮は、それを撥ね退けてくれた。どうしても断ち切れなかったその鎖から、解き放ってくれたのだ。


 かつてあんなにも虎面を追っていたのに、蓮と出会ってすっかりそのことを忘れていたのだってそうだ。

 皆が認め得る存在になれれば、胸の内に巣食う疎外感をなくせると思っていた。この靄を晴らせるかもしれないと思っていた。


 でも、違うのだ。

 本当は皆に認められる必要なんてなくて、自分が大事だと思った人とつながり合えたなら、それでよかったんだ。

 蓮はそれを、自身の行動で猫乃門に教えてくれたのだ。友として、相棒として。


 猫乃門はそう思いながら、彼女との様々な言葉を頭の中に巡らせる。たくさんの記憶を巡らせる。

 思わず、ふ、とうっかり零してしまったように、笑みを浮かべた。


「……アイツ、すげえさらっと『相棒だろ』って言うんだよな」


 配信のときも、配信してないときも、蓮はなんてことないように、猫乃門を相棒と呼んだ。照れも羞恥もなく、当然のことのようにそう言っていた。


「俺はそれがうれしかった。でも、俺、アイツのそういう言葉を一回もまともに受け止めたこと、ねえんだ」


 蓮の“相棒だ”という言葉を、猫乃門は肯定も否定もせずに、ただかわして向き合わずに、素知らぬ顔をしてきた。

 一度だって、同じように彼女のことを相棒だと言ったことはなかったのだ。


「……ずっと、甘えてたんだよ、蓮に。たぶん、怖かったんだろうな」


 思わず、そっと目を伏せた。それについて考えようとする脳を、いつも無理やり誤魔化すように振り払っていた。

 だってそうしないと――。


「受け止めて、返したらあいつのことが大事になっちまうから。そんなのただの足掻きでしかねえのに、俺はそうやって自分勝手にふるまうことで目を背けてたんだ」


 大事になって、いつか別れるときになったら。

 だってこれは、復讐が終わるまでのただの協力なのだから。

 猫乃門獄はそれがこわかった。そこから目を背けたところで、彼女の存在が大きくなることなど止めようがないのに、それでも歪な自己愛で蓋をした。


「ずっと、自分のことばっかだったんだ。だからアイツのことを何も知らねえ。踏み込まなかったからだ。ちゃんとアイツのことを知ろうとしたら。自分の感情ばっかじゃなくて、アイツを見ようとしてたら、こんなことにならなかったかもしれねえのに」


 猫乃門の中に、後悔が押し寄せる。

 言ったって無駄だったかもしれない。知ったって意味はなかったかもしれない。何も変わらなかったかもしれない。


 それでも、何もしないのは、何も言わないのは、ないのと同じだ。

 ぎゅう、と唇を噛みしめる。痛いのに、それなのに、そんなこと気にならないくらいに、胸の内を渦巻く後悔だけが彼女の心を占めていた。


「おれ……あいつにもらってばっかりだったよ……」


 返せなかった。否、返さなかった。

 失った時に初めて後悔を覚える、なんてのはあまりにもチープでありふれているけれども、それはきっとそれだけに普遍であるからだ。

 猫乃門獄はその普遍な後悔を抱えながら、自身の感情と、向き合わねばならぬ現状の狭間で押し潰されていた。

 夢兎は彼女の言葉を静かに聞いていた。ただ、静かに。


「……そうですね。猫さんの後悔も、想いも、わたしなりに受け止めているつもりです」


 そして、そっと一度だけ深く瞬きをすると、目の前で震えるほど強く握りしめられた拳を、優しく包み込んだ。

 温かく包み込んで、その上で。


「それでも、あえて言います。猫さん、人は時に争わなきゃいけないときがあります。こうなってしまった以上は、戦いを避ける道はありません」


 夢兎の言葉は変わらない。ただ厳しく、突き放すようにさえ聞こえるそれが、再び猫乃門の内側を刺す。

 けれど、夢兎は再び強く猫乃門の拳をきゅっと握ると。


「でも、その後にどうするかは、その人次第なのです」


 猫乃門の大きく見開かれた瞳が、夢兎を映し出す。キラキラと輝くブルーグリーンの瞳が、猫乃門に力を与えるように優しく輝いていた。

 その瞳の光が、猫乃門の瞳に受け渡されるように彼女の瞳をも照らしていく。


「あなたはまだ、選べますよ」


 人間は過去を変えられない。それでも押し寄せる後悔の念を抱くのは、次に活かすことができるからだ。今更過去を悔いても遅いが、これからを決めるのはまだ遅くない。

 やはりこれもまた至極普遍的な答えだけれども、それだけに普遍な後悔の狭間で藻掻いていた猫乃門の瞳に、光を取り戻させるには、充分であった。


「……ゆゆんちゃんは、かっけえなァ」


 猫乃門は小さく呟く。

 その口元には、ゆるりと柔らかな弧が浮かび、瞳には揺らぎが消えていた。


「ありがとう、ゆゆんちゃん」


 しっかりと、いつもの調子に戻った猫乃門は彼女に礼を告げる。

 彼女のやさしい激励を胸に仕舞った猫乃門は、ぐっと拳を握り締める。


 夢兎の言う通りだった。そして彼女の言う通りならば、まずは蓮に勝たなければいけない。

 その気持ちのまま勇んだ猫乃門は、すっかり怪我の事など忘れて、自身を鼓舞するように立ち上がると。


「俺はアイツに――ッて、いててッ、! 腹が……ッ! 腹の傷が……開いたかも……」

「ねっ、猫さんっ! 早く、早く横になるのです! 治療しますのです!」


 慌てたいつもの夢兎の声に、猫乃門は「すまねえ……」と呟きながらも、思わず口元に笑みを浮かべたのだった。


***


 それから一日半、猫乃門は傷の療養に努め、夢兎は彼女の傷を魔法で癒し続けた。

 おかげで猫乃門はすっかり傷が治り、むしろそれどころか以前よりも身体の調子が良いほどにまで回復した。


 しかし、怪我の療養に努めていた彼女たちは知らなかった。彼女たちが知らぬ間に、蓮がお膳立てをした舞台はインターネットの海を駆け巡り、一つの大きな祭りとして担ぎ上げられていたことを。


 今やそれは、怒り、憎悪、希望、期待、悲しみ、愉悦――あらゆる人々の思惑と心が交錯する一大舞台と相なった――。


 そんな舞台の幕が、上がろうとしていた。

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