第26話 猫乃門獄(ひとや)は人間だ

 何も聞こえない。感覚がない。熱も、あるはずの痛みすら、もはや遠くの彼方に消えたかのようだ。


 ――あー、だっせえな、俺。


 頭の中に、声が響く。満天の星空が見つめる中、猫乃門はぼんやりとその声を聞く。


 ――完全に足手まといじゃん。蓮に庇われて、怪我させて、その蓮の行動無駄にして結局やられてさ。マジでカッコ悪ィ。


 ――所詮、人間だよな。特別な力もねえし、秀でた術もねえ。俺は、ただの人間だ。


 どこか卑屈めいた言葉がまた脳裏に浮かんでくる。ずっと言われてきた言葉。周囲からずっと言われてきた言葉が、蝕むように彼女の脳内を回ろうとする。


 ――俺は、ただの人間なんだから。


 けれども、突如それを遮るように声がした。


『貴様は私の復讐を手伝え、猫乃門獄(ひとや)』


 いつぞやの蓮の声だと気付いた。

 なるほど、これが走馬灯というやつか、とぼんやりした頭で考える。


『名? あー、そうだな、レン。蓮だ』


 改めて聞いても、やっぱ絶対今考えたやつじゃねえか、と思う。自分の名で口籠る奴があるか。


 ――じゃあまだ、本当の名前聞いてねえなァ。


 頭の片隅で、そんなことを考えた。


『大丈夫。目を瞑っていろ。合図したら力一杯振り下ろせ』


 これはゴーストハウスのときの会話だ、と思い出す。震える自身の手を、落ち着かせるように握り締めて言っていた。


 ――ホント、恰好付くヤツだよ、お前は。


 呆れたように笑ってみせる。恰好付けて格好いいのだから、文句などつけようがないではないか。

 蓮のナルシストぶりには呆れることもあったが、結局のところ猫乃門は自らに心から胸を張る蓮の自信に、どこかで好ましさを感じていたのだ。

 彼女のその在り様に、惹かれていたのだ。


 ――つーか走馬灯、こいつばっかじゃん。たかだか数週間くらいの関係のくせによ。


 自分の思い出のなさというものに少し残念な思いがした猫乃門であったが、しかし、それは違うのだなと思った。違うのだ。


 ――あぁそうだよ、多分。たぶん、時間とか、そんなん関係ないくらい、俺は――。


『……まったく、貴様は人間のくせに本当に無茶をする』


 ひどく優しい声色をして、蓮はそっと傷跡を撫でていた。抉れた古傷を、それでも労わるように、触れていた。


『……しょうがねえだろ、俺は人間で、弱えんだから。無茶するくらいしか方法ねえんだよ』

『阿呆め。弱い者はこんな傷は作らない』


 そうだ、そういえば蓮はそんな風に言っていたな、と思い出す。

 揺らぎのない、桔梗のような瞳を強く輝かせていて、それがひどく綺麗だったのだ。


『もっと人間であることに胸を張れ小娘。人間という種ではない。人間でありながら、異能の前に立ち続ける強さをだ』


 ――くそ、と思わず呟いた。

 声に出ていたかどうかはわからない。ただその言葉が、視界にかかっていた靄を全て取り去ってくれたかのように感じた。


 かろうじて落ちている大鎌を掴んで、よろり、と立ち上がる。どろどろと零れ落ちる赤黒い血が、嫌になるほど視界を埋め尽くす。

 握った柄の感覚がない。感覚だけでは、しっかり握れているのかすらわからないほど、最早すべての触覚が無に近い。


 けれど。

 ただ足を動かす。無心だった。走っている内に、大鎌を持っている内に、どんどんと視界が開けていくような気がした。

 そうだ、そうだったのだ。


 ――俺はたかだか人間で、他の奴らみてえに魔法も魔術も異能も何も持ってねえけど――。


「だからこそ、ッ! 俺はッッ!!」


 叫びながら、ただ我武者羅に、目の前の虎面目掛けて鎌を振り上げた。

 不意をつかれたように、虎面が振り向いたが、しかしもう遅い。


 猫乃門獄は人間だ。ただの人間だ。呪文を唱えて水を生み出したり、式神を召喚したり、ファンシーな攻撃を繰り出すことはできない。

 でも、だからこそ。だからこそ猫乃門獄は――。


「強えんだよッッ!!」


 ざぱんっ、と明確な手ごたえと共に、目の前で鮮血が噴き出した。

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