第25話 ころす

「獄(ひとや)ッ!!!」


 瞬間、それだけが聞こえた。

 すべての感覚がそれに支配されたように、蓮が己を呼ぶ声だけがして。

 ドンっと一度体中に鈍い痛みと衝撃が走ったあとに、再び新しい衝撃。


 されど、じんじんと痛む身体は、想像していたものとは随分と違う痛みで――。

 びちゃびちゃ、と自身の前で、何かがこぼれ落ちる。


 ――何か?


 何かではない。血だ。

 影を作った何かの下で、大量の血が、まるでバケツの水をひっくり返したかのように、地面を濡らしている。

 懐中電灯の光に照らされて、それらがてらてらと光っている。


 同時に生ぬるい何かが、自身の頬を濡らしていることに気づいた。

 けれどもそれを拭うよりも前に、自身の斜め前にいた黒い影が、重力に従うように倒れ込む。

 ばちゃんっ、と水を打つような音がした。

 その影が、倒れたその人影がいったい誰かなど、分かり切っていたことだった。


「れ、ん」


 ただ小さく声をかける。

 反応はない。

 けれど、どうにもそれを脳内で処理できない。だから、もう一度目の前の信じたくない事実を否定するように名を呼んだ。


「……れ、ん……?」


 まるで幼子が親を呼ぶかのような声色だった。か細くて、今にも消えてしまいそうな、そんな声。

 しかしそんな声で呼んでみても、蓮は動かない。ひとつも、ピクリとだって動かない。


 頭の中が真っ白になった。真っ白になって、何をすればいいのか分からない。

 とにかく彼女に掛け寄ろうとして、足をもたつかせながら四つん這いで近寄った。ずり、ずり、と地を擦る無様な音が、静かで籠るトンネルの中に響き渡る。


 けれども、そんな動作を待ってやるほど虎面は優しくはなかった。

 猫乃門に向かって、まるで友に寄るが如き気安さで近づくと――。

 瞬間、その腹を蹴り上げた。


「ッご、ぁっッ!!」


 それはさながら、自身に時速180キロの車が追突してきたかのような、そんな衝撃だった。

 彼女の身体はゴム鞠のように跳ねると、そのままトンネルの外へと放り出される。

 ずたずたにアスファルトに抉られた肌がひどく気持ち悪い。そんなどうでもいいことをぼうっと考えながら、こみ上がる胃液を吐き出した。


 意識が朦朧としている。視界の全てが霞んでいるし、眩暈もする。何より打ち付けられた衝撃で身体の至るところが痛い。

 身体の内から針で刺されるような、外側から薄皮を捲られているような、臓器を鷲掴みにされているような、そんな痛みがじんじん、じくじく、ずきずきと身体中から響いてくる。


 けれども。

 猫乃門は背に手を伸ばした。猫型のプラスチックケースを、普段よりも幾分か弱々しく叩いて、大鎌を組み立てる。

 自動追尾カメラが視界の端に映った。そういえば配信中だったのだと思い出した。しかし、構ってはいられない。


「……ころす」


 ――虎面を殺す。

 必ず、その息の根を止める。


 猫乃門の黒い眼が、月の光を浴びた黒曜石のように強く光る。

 かつて虎面につけられた右目の傷が、胸の傷が、どの傷よりも存在を主張するようにずきりと痛んだ。その痛みを押しつぶすように、目の前の虎面を鋭く睨み付けた。


 虎面はただ突っ立っていた。

 まるで無機物かのような白い肌も相まって、目の前のそれがより一層異物めいている。

 じり、と敵を睨み付けながら片足を引いた。軽く、それでいて重く、足先に全ての力を込めて


 ――跳んだ。


 およそ人間の跳躍力の限界を最大限まで引き出したかのように、猫乃門は高く跳んだ。同時に、その大鎌を月に照らしながら、一気に振りかぶる。

 一の太刀、二の太刀、三の太刀、四の太刀――まるで永遠に続くかのような斬撃の応酬が、虎面の編み笠を傷つけ、猫乃門の衣服を断ち切り、両者の肌に赤い一線を作る。


 交えた刃にはまるで感情がない。何度打ち合っても、何度重ねても、内側までもが無機物みたいなそれに、どこか怖くなる気持ちを押し殺す。

 かつてもこれほど無機物のようだっただろうか。あまりにも異質な、それ。

 感情がぐちゃぐちゃになってるのではない。“ない”のだ。それがより一層恐ろしいことだということに、猫乃門はこのとき初めて気が付いた。


 されど、やり合えている。そう思った。

 恐れで刃は鈍っていない。むしろアドレナリンのおかげか、かの者のスピードに、力に、渡り合えている、と。

 なればこのまま体力を削り合えば、いつか必ず隙ができる。ゆえにこそその隙を利用して、虎面に会心の一撃を入れるのだ――と。


(……いける……!)


 しかし、所詮猫乃門は人間で。

 虎面は化物だった。

 突如、光が猫乃門の後ろに差し込んだ。明らかに月光とは異なる、紫の光。

 キュイイン、とやけに甲高い音とともに現れたそれは――。


「ぐァがッぁっ!?」


 どすどすどす、と鋭い衝撃が自身の背から腹部にかけて伝わったのがわかった。

 痛み、というよりもただ熱くて、身体中が熱を持ったみたいだった。

 オーバーヒートしたみたいに上手く身体が動かなくなって、力が入らない。

 からりん、と大鎌が地を打つ虚しい音がした。


「ッ、っ?」


 猫乃門はふらりと数度足をよろめかせて後退しながら、ぺた、ぺた、と自身の腹を撫でた。どろりと滑る何かが、自身の手のひらの上にこびりついている。

 飛び出た刃の先が、まるで骨でも突出したかのように貫いている、と認識したと同時に、それらは光の粒のようにさらさらと消えた。


 途端に口からこぼれ落ちる血とともに、ただドシャンッと重力に従った身体が、抵抗する力もなく地面に落ちていく。

 刃が消えたおかげで、穴のあいた風船から空気が抜けていくみたいに血が流れる様子が、視界の端に映った。

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