第21話 美しさ
ぎしり、とベッドのスプリングが軋む。蓮に捉えられた腕の中にあった桃がごろりと地面に落ちた。
しんとした空間で、二人の顔がやけに近くにあった。
けれども、猫乃門の瞳は蓮の顔を捉えてはいなくて、それよりももっと下。はだけた胸元にあった。
いつもならばびっしりと着こまれているそこが、風呂上がりよる軽装と乱闘によって緩んだのだ。おかげで普段は隠されているものが露わになった。
――傷。
大きな古傷だった。
何か鋭利なもので肌を引き裂かれたような、痛々しい傷。
「お前……これ、どうしたんだ」
呟くように言った。蓮は猫乃門の視線に気付くと。
「あぁ……付けられたんだよ、『仮面』にな」
言いながらさりげなく、されど急くように襟元を整えた。
「忌々しい傷だ。見せるようなものではない」
猫乃門はしばし沈黙した。
蓮がこれまでやけに着込んだ服装をしていたのは、あるいはこの傷のせいだったのだろうか、と思案する。
その傷跡を、気にしていたのだろうか。自ら忌々しいと形容する、その傷を。
あれほどまでに自身の美しさを誇る彼女が、他者に見せまいと隠すことの意味を、猫乃門は考えずにはいられなかった。
だからこそ、あの『虎面の人型』をああまでして追っているのだろうか。『殺す』と断言できるほどまでに、強く。
意図しなかったとはいえ、自分は不躾にも、そこへ土足で踏み込んでしまったのだろうか、と猫乃門にわずかな後悔の念が押し寄せる。
何を返せばいいのかわからなかった。たとえ励ましのような言葉をかけても、結局は他人事で――。
だからそのとき、そっと自身の眼帯に手をかけたのは、少しでもその領域から脱した思いを伝えたかったからかもしれない。
猫乃門は眼帯を外しながら、同時に、もう片方の手でシャツの襟を伸ばしてみせる。
そこには傷があった。
右目から胸まで、斜め一直線に裂かれた傷痕。そこだけ、まるで存在を主張するかのように白く、抉れている。かつて蓮と同じように猫乃門が、虎面の人型によってつけられた傷である。
「……俺もあるし。気にしなくていいんじゃね」
言い方は素っ気なかった。けれど投げられたその声は、ひどく優しい。
蓮は一瞬、その大きな薄紫色の瞳を丸くした。
しかしすぐに猫乃門の行動の意味を理解すると、少しばかり苦笑したように眉を下げて微笑んだ。その表情は、猫乃門の声色と同じくどこまでも優しく。
「……まったく、貴様は人間のくせに本当に無茶をする」
蓮はゆっくりと頬の傷痕に手を持っていくと、指でそうっと撫でた。
古傷だから少しも痛くないのに、まるで労わるような触れ方をするので、猫乃門は少しくすぐったかった。
「……しょうがねえだろ、俺は人間で、弱えんだから。無茶するくらいしか方法ねえんだよ」
「阿呆め。弱い者はこんな傷を作らない」
蓮の薄紫の瞳が、真っすぐと猫乃門を射抜いた。揺らぎのない、桔梗のような瞳が強く輝く。
「もっと人間であることに胸を張れ小娘。人間という種ではない。人間でありながら、異能の前に立ち続ける強さをだ」
猫乃門は思わず目を見開いた。
強いと言われたのは初めてだった。
猫乃門はいつも自身の弱さを嘆いてきた。人間であることを、引け目に思ってきた。その一方で何か特別な能力がある者たちを心の中で羨んできた。
けれども、蓮は人間であることによってより一層光を放つ猫乃門の強さを、しっかりと見抜いていたのだ。
「貴様を見ていると、貴様と同じ目をしたヤツを思い出す」
するりと目の傷をなぞりながら、ぽつりと呟いた。
右目のほとんどは傷のせいで感覚が大きく鎖されているためあまり実感はないが、おそらく先ほどと同じように優しく触れているのだろうということがわかった。
「隻眼ってことか?」
猫乃門の問いに、蓮はしばし目を伏せた。
それから一度だけ記憶を思い返すように瞬きをする。
「いや」
小さく、柔い笑みを浮かべた。
「美しいってことさ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます