第18話 腕のあるミロのヴィーナス

●第三章



 次の日、猫乃門は何やら甘い匂いで目を覚ました。ぼんやりと瞳を開けると、視界の先では猫乃門愛用の猫のキャラクターが描かれたエプロンを着た蓮がフライパンを片手にキッチンに立っている。


「お、起きたか」


 猫乃門に気付いた蓮が軽く声をかける。


「さっさと顔洗ってこい。朝食はできてるぞ」


***


 猫乃門は目の前に置かれた猫型のパンケーキをじっと見つめる。ご丁寧に可愛らしい猫の顔まで描かれている。


「こういうの好きだろう?」

「ぐ、う、好きだけど……」


 蓮の言葉に思わず声を詰まらせる。

 好きだ。好きだけど。蓮に好みを熟知されているのが非常に癪だった。それに、以前夢兎との会話で言った『好きなもの』を覚えているのだろうことが、何よりも。


「……おまえ、俺のこと何だと思ってるんだよ」


 思考を遮るように、小さく零した。目の前ではチョコレートシロップで描かれた愛らしい猫ちゃんの顔がじっと猫乃門を見つめている。

 確かに数千年生きたという蓮にしてみればたかだか二十年程度生きた猫乃門など子ども同然だろうが……などと思っていると、蓮はきょとんとした顔をして。


「何って、相棒だろう?」


 さも当然といった表情で言うものだから、猫乃門は思わず再び声を詰まらせてしまった。

 それを誤魔化すように口を尖らせて、湧きあがる感情を無視する。


 そうだな、と。相棒だよ、と言えばいいのに、猫乃門はそれが言えなかった。

 だってそれを口に出してしまったら。肯定してしまったら――。


 脳裏を掠めたその考えを飲み込むように、ぱくり、と一口頬張った。ふわふわの生地が口の中でふんわりととろける。しっかりと好みの甘さ控えめであった。


「……美味い」

「それはよかった」

「……あ、ありがとう」

「どういたいしまして」


 猫乃門が頬を赤く染めながら唇を尖らせて言った礼の言葉に、蓮は軽く返した。その軽さが、猫乃門には心地よかった。

 ちらり、と蓮の方へ視線を向ける。


(しっかし、こいつヴァンパイアなのにマジで普通に飯食うなァ……)


 猫乃門は先ほどからひどく礼儀正しい作法で山盛りのパンケーキを口に運ぶ蓮をそっと盗み見る。

 ヴァンパイアだというのに、蓮は血も吸わないし血に似たものを飲むどころか普通に人間と同じ食事を摂る。まったくヴァンパイアのヴァンパイアらしさを放り投げたかのようであった。


 盗み見られていることに気付いたのだろう、蓮がちらりと視線を上げた。ばちっと目が合ったのに驚いて思わず視線を逸らすが、蓮はじいっと猫乃門の方を見続けていた。


「な、何だよ」


 居心地が悪くなって、思わず猫乃門の方から問う。

 蓮は目を逸らさなかった。ただ彼女の瞳だけを見つめながら。


「……いや」


 その言葉と共に小さく目を伏せると。


「貴様の目は黒いんだなと思ってな」


 そっと、独り言のように呟いた。

 その声は、あるいはその瞳は、普段の蓮ではないみたいで猫乃門は少しだけ違和感を感じた。まるで何か全く別のものに思いを馳せているような瞳。


「……? どういう意味だよ」


 猫乃門が問うと、蓮はしばし黙った。やけに長い沈黙のように感じたが、それはおそらく猫乃門が彼女の答えに少し緊張してしまったからだろう。けれど。


「……いや、何でもないよ」


 蓮はそれ以上何かを言うことはなく、再びパンケーキを切り分け始めた。


***


「ゴーストハウスの振り返り配信をするぞ」


 その日の夕方、突如思い立ったかのように蓮は宣言した。


「振り返り配信?」

「あぁ、参加した感想なんかを振り返る配信だな。折角これだけ話題になっているんだ。乗らない手はないだろう」


 蓮は言いながらパソコンをいくつか操作すると。


「それに見てみろ」


 パソコンの画面から猫乃門たちのチャンネルを開いて見せた。

 【猫乃門獄&れんひとチャンネル】と記されたチャンネルの横には、チャンネル登録者数が記載されていて、以前までは精々数十人程度だったそれが――。


「いっ一万人!?」


 桁が二桁ほど違っている。


「ど、どういうことだ……!?」

「昨日の生放送による反響のおかげだな。あとなぜか夢兎さんがすごく拡散を手伝ってくれている。これは嬉しい誤算だな」


 そう、夢兎がまるで自分事のように【れんひと】に関するSNS投稿に反応するおかげで、拡散がさらに広がっているのだ。


「ゆゆんちゃん……マジで良い子じゃねえか……」


 猫乃門は夢兎の優しさに心がじんとあたたかくなった。しかし実際のところ夢兎は自身の欲望に従っているだけであるし、心も体も猫乃門より一回りくらい年上の一般中年男性である。

 されど、そんなことは露ほども気づかない猫乃門は、小さな愛らしい少女を思い浮かべながら手を合わせ拝む。頭の中の夢兎が(お礼なんて必要ないのですよ)といつもの甘いお菓子のような表情で微笑んだ。


 その隣に薄っすらと浮かんだ一般中年男性の姿に猫乃門が気付く日は果たして来るのだろうか。それは神のみぞ知る。


***


「おぉ……やべえ、すでに500人も集まってる……」


 猫乃門は、あらかじめ設定しておいた生放送枠で、すでに500人以上が待機しているという事実に目を丸くしつつ、少しばかり身構える。

 20時前というゴールデンタイムではあるが、それにしても数ある配信の中から500人もの人が事前に集まっていることに、驚きを隠せなかった。


「何をビビっているんだ。生配信は夢兎さんのところでもしただろう」

「そ、りゃあそうだけどよ……」


 言いながら猫乃門は平素とは違って弱々しく呟く。

 確かに夢兎のところで既に配信は行っていたが、あの時は、イベントのワクワクとハイテンションで緊張を和らげていたのだ。今のこの状況とは、まるで違うのである。

 そんな猫乃門を横目に、どうやら緊張が収まるどころか高まっていく一方らしいことを察した蓮は。


「じゃあそろそろ始めるか」


 と、何の躊躇もなく自動追尾カメラの画面に映る『配信開始』という赤いボタンを押した。


「えっ、おまっ」

「はい、スタート。やーあ、画面の前の皆、見えてるかー? 見えてる? オーケーオーケー」


 猫乃門の声をさくっとスルーした蓮が、手慣れた様子で宙にに投影されたコメントを確認する。コメント欄は開始と同時に一気に加速して川のように流れていた。


『うつったー!』

『蓮様ふつくしい』

『顔つよ』

『腕のあるミロのヴィーナスじゃん』

『世が世なら彫刻になる美しさ』

「私が美しいって? ありがとな」


 妙にクセのあるコメントを見つつ蓮が軽くウインクすると、さらにコメントが濁流のように押し寄せる。同時に視聴者数も500人程度からすぐさま四桁台へ突入する。


「じゃあ始めていこうか。皆こんばんは、私は蓮だ。今日は来てくれてありがとう」


 一方で猫乃門はドキドキとやかましい心臓を抑えながら強張った顔で画面を見ていた。

 しかし、蓮が肘で自己紹介を促すとハッと意識を覚醒させ居住まいを正した。


「お、っおう、俺は猫乃門獄だ。ありがとな」


 ふりふり、と小さく手を振る仕草はぎこちなかったが、一言目をしっかり発せられたことで少しだけ緊張は解けた。

 蓮はそんな猫乃門を横目で見つつ、彼女の言葉に続けるように。


「二人合わせてれんひとだ、どうぞよろしく」

「……お前それ定着させようとしてねえか? 俺はぜってえ言わねえからな」

「相棒が強情で困るよ」


 蓮は、猫乃門に、というよりかは視聴者に向けて肩を竦めつつ、やれやれと言うように笑った。


「じゃあとりあえず、今日はこの間お誘いいただいた【雨ハルの乙女】さん主催のゴーストハウスを振り返って行こうと思う。まあ皆知ってるとは思うが、コイツがビビりにビビりまくってな」

「はぁっ!? ビビってねえよ!」

「驚いて跳びはねて私の頭にしがみついていたではないか」

「うるせー! あれはちょっとびっくりしただけだ!」


 ぎゃんぎゃんと猫乃門が騒ぐ一方でコメント欄が賑やかに流れていく。


『猫クソビビっててほんま草だった』

『マジ猫みたいに飛び跳ねてたもんな』

『ネコってか全体的に狸っぽかったけど』

『猫ちゃんに蹴飛ばされたい』

「うるせ〜〜!! 俺へのコメント辛辣じゃねえか!?」

『でも最後はちょっとカッコよかったで』

「ちょっとだけかよ! ……まあ、ありがとな」

『ツンデレじゃん』

『ツンデレ乙』

『猫ちゃん罵倒して!』

「誰がツンデレだ! てかなんかさっきから変態いねえ?」


 怒涛の視聴者のコメントに突っ込みながら、全くウチの視聴者はどうなっているのか、と内心でつぶやく。

 けれど、その一つ一つが嬉しいのも事実だった。わざわざ時間をとって、自分たちの配信を見に来てくれているばかりか、コメントまでして盛り上げてくれているのだ。嬉しくないはずがなかった。


 また一方で猫乃門は、ふと自身の緊張が溶けていることに気付いた。

 それは蓮が最初からさりげなく空気感をコントロールしてくれたからだ、と気付けないほど彼女は鈍くはなかった。

 そっと、隣の蓮を見やる。蓮はいつもと変わりなく、人形のように美しい微笑を浮かべながら、視聴者のコメントをさらりと拾いつつ軽快にトークを続けている。


 思えば、蓮はいつだって感情に大きな揺らぎがない。いつもどこか余裕そうで、飄々としていて――否。そういえば、今朝の蓮は、少しばかりそういう彼女とは違って見えたような……。

 そう思ったとき、ばちっと蓮と目が合った。彼女は一瞬猫乃門の様子を見やるように眼差しを向けたが、しかしすぐにいつもの余裕そうな笑みを浮かべて。


「何だ、惚れたか?」

「んなワケあるかっ!」


 猫乃門が噛みつくように言い放つと、蓮は愉快そうに笑う。

 一方でコメント欄は大盛り上がりである。


『キャー! 蓮さまー!』

『蓮さまステキ』

『蓮様かっこいい!』

「だろう。私もたまに鏡を見て驚く、自分の顔が良すぎて」

「そういうとこだぞ」


 猫乃門は半ば呆れながらツッコむが、しかし。

 再び視聴者との歓談を始めた蓮を横目で見やりながら。


(……こいつには、助けられてばっかだな)


 これまでのことを思い出して、ぼんやりと心の中で呟きつつ、小さく笑みを浮かべた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る