第17話 虎面の人型
「ほあー、今日もつっかれたのう~~」
ぐでん、とピンクのウサ耳がついた一人用座椅子に、まるでおっさんのように凭れ掛かる少女が一人。
夢兎ゆゆんは、普段の装いはどこへやら、前髪を黒の髪ゴムでくくった丁髷ヘアに紺の芋臭いジャージ姿で、片手に持った缶ビールを呷った。
「ッカー! 仕事終わりの酒はほんま美味いなァ!」
部屋の中はイメージカラーであるブルーグリーンとピンクの家具と装飾品で満たされたお人形のような一室。しかし、それだけに今の夢兎はあまりにもその空間から浮いていた。
彼女は白とピンクを基調とした愛らしいローテーブルの上に缶ビールを勢いよく置くと、近くに置いてあった煙草に火を点ける。
「ふぃ~~生き返る~~」
吐き出した白い煙に包まれながら、少女が心底満たされたように呟くと。
《ゆゆんちゃん、あんまり飲みすぎると明日に響くぽよ!》
突如何もないところから出現した丸っこい球体のうさぎ型ぬいぐるみが、ぱたぱたと天使のような羽を揺らしながら彼女の傍に寄ってくる。
夢兎はそれを見やりつつ眉を吊り上げると。
「ぽよちゃんはやかましいなァ! そもそもええ加減この恰好もウザったいわ!」
言うや否や彼女が傍らにあったステッキを振ると、周囲でぼんっと白い煙が舞い上がる。
次の瞬間、その場にいたのは――愛らしい少女……ではなく、不遜な表情をした髭面の中年男性であった。
黒い短髪にはいくらか白髪が混じっており、無精髭は少々清潔感を失わせている。前髪丁髷ヘアとよれたジャージのせいで、一層そのイメージが補強されていた。
本名、本田勇之介。45歳男性、独身、元サラリーマン。
彼は仕事以外の時間と金を全てオタ活、否、百合活に費やしていた生粋の百合好きである以外は、ごくごく平凡な男であった。
しかしかつて、このウサギに似たぬいぐるみに突然魔法少女になってほしいと言われたときに彼の世界は一変した。彼の愛していた普通はひらひらのスカートとキラキラの魔法エフェクトによって消し飛んだのだ。
さらには戦闘中に別世界の日本に飛ばされ、あまつさえ帰れないと知ったときは無論憤って絶望した。
しかし彼は百合好きだった。百合過激派だった。
ゆえに、数多の百合(疑似)カップルを間近に見れる現実を理解したとき全てを許した。
むしろこの状況は人生のボーナスステージなのだ、と思った。人生を百合に捧げたがゆえに、百合の神様が自身に与えてくれたご褒美。サンタさんが靴下の中に入れてくれたプレゼントなのだ、と。
自分が魔法少女になるというのは解釈違いだったが、この世界で食っていくにはなかなか良い仕様だったし、見た目だけでも百合カップルに男が介入するのを見なくて済む。
そして何より、この姿なら比較的容易く百合カップルに百合アクシデントを起こすことができることに気付いたのだ。最終的にはぽよちゃんに感謝すらしたものだ。
「しもうた、元に戻すと目ぇ悪なるんじゃった」
先ほどまでの耳がとろけるような幼声とは打って変わった低音が、ドールハウスがごとく愛らしい部屋に響く。
中年男性と化した夢兎は「メガネメガネ……」と呟きながら、ウサ耳がついたピンクの眼鏡ケースから取り出した老眼鏡をかける。万が一配信に映っても問題ないように、フレームだけは今風の細縁ラウンド型だ。
同時に、ウサ耳のついたカバーのスマホも取り出すと、本日出演した生放送『雨ハル’sゴーストハウス』の感想をサーチする。
《ゆゆんちゃん、今日も可愛かったってたくさんのコメントがきてるぽよ! 皆のハッピーエネルギーでまた魔法が使えるぽよね!》
自身の謎の技術により機械なくしてインターネットを扱えるぽよちゃんが、夢兎のSNSアカウントを見ながら彼女に声をかける。
「そおかぁ、有難いなあ。またありがとう言うとかななァ」
夢兎はしみじみとそう呟きながら。
「……そいであの二人への反応はどんな感じじゃ?」
《あの二人ぽよ?》
不思議そうに問うたぽよちゃんに、夢兎は勢い余って立ち上がりながら叫んだ。
「れんひとの二人じゃ! ワシは次のターゲットをあの二人に決めた! ワシはれんひとをトップ・オブ・百合にする!」
その瞳は熱意と決意によってグツグツ、あるいはキラキラと燃えていた。何が彼をここまで駆り立てるのか――されどそれがオタクというものなのである。
更に言うならば、彼の性癖があの二人と合致してしまった。そうなった以上、最早熱意を留めることはできない。
ぽよちゃんは目の前で拳を握り締める夢兎に呆れた表情をしつつ。
《それよりゆゆんちゃんが百合営業した方が……》
「アホかァ~~!! 何べん言わすんじゃ! ワシは中身おっさんなんじゃ! そりゃあ百合やない! そもそも猫乃門に至ってはいくつなんじゃ! 高校生とかじゃったら犯罪じゃろうが!」
《ゆゆんちゃんのそういうところ好きぽよ》
「ありがとう! ワシもぽよちゃんのこと好き!」
それにぽよちゃんは嬉しそうに耳をぴょこぴょこさせてにっこりと笑みを浮かべたが、されど、すぐに少しばかり目を伏せ。
《……でもゆゆんちゃん、元の世界へ戻るためにはもっと色んな人にゆゆんちゃんを知ってもらって、好きになってもらわなきゃダメぽよ》
「あ~~、そういえばそうじゃったのう……」
いまだにこちらの世界から元の――別世界へ渡る方法は確立されていない。しかし初めてこの世界に降り立った異世界人曰く。
『あらゆる人間が内に秘めるエネルギーを一点に集めたとき、それが現れる』
とのことで、その説が広く流布されているのである。
そして夢兎は、そのエネルギーとやらに既視感があった。
彼――またあるいは彼女が魔法を使用する際に用いるハッピーエネルギーである。
これは人間が幸福な気持ちを感じたときに得られるエネルギーであり、それを変換して夢兎は魔法を使用している。
つまるところその別世界への扉を顕現させる方法は、原理的にはこれと似たようなものではないか、と夢兎たちは考えたのだ。
だからこそ夢兎は、BTuberとして人気になれば人間のエネルギーとやらを集めてこちら側からゲートを開く糸口になるのでは、と当初は思っていたのだが……。
「いや~でもワシ、この世界結構楽しいしなぁ~。正直帰りたくないっていうかぁ~」
《何言ってるぽよ! 最初は帰りたいってずっと言ってたぽよ!》
「最初はな! じゃけんどあの頃は異世界人に対する目も厳しかったし、ワシなんかここ来た途端敵性異人じゃ思われて攻撃されたし! 何じゃこの世界はよ帰りたい思うたけど……!」
《でも、元の世界に残してきた人たちがいるでしょぽよ!》
「そんなんおらへんのぽよちゃんが一番ようわかっとるじゃろ! そりゃそう言うて元の世界に帰りたい言うてる異世界人の話はようけ聞くけどなぁ、ワシは違うんじゃ! じゃけえこの話は終わり! 今は現在の話に集中じゃ!」
夢兎は言うや否や会話を切断すると、手元のスマホに視線を向ける。ぽよちゃんは後ろでまだ何かを言っていたが、聞こえへん聞こえへん、と適当に振り払った。
「そいであん二人……『虎面の人型』を追うとるいう話じゃったな。正直、詳しい話はよう知らんのじゃけど」
夢兎は呟きながら、スマホで検索をかける。すると、検索結果にひとつ、気になる動画が引っかかった。
タイトルは『“虎面の人型”最初で最後の大規模討伐映像』とあり、おそらくは虎面が初めてこちらの世界に来たときの、虎面を伝説級と言わしめるに至った現場だと思われた。
夢兎はその動画を開くと、そのまま再生ボタンを押す。
動画は荒かった。ところどころが砂嵐のようにザザッと乱れており、角の方は真っ黒で何も見えない。おそらくは追尾カメラが一部壊されているのだろう。
画面の中では一部が氷に覆われた街路で、虎面が優雅とまで言える様相で立っていた。
白い花柄の着物は夢兎も見覚えがあるものだったが、トレードマークの編み笠を貫通して頭の上に牛角のような真っ直ぐ伸びた鋭い角が二本生えている。
それでいて武器は何一つ持っていない。ただ陶器のような白い肌と獣のように鋭い爪だけが着物の袖から見えていた。
すると突如、何十人もの戦闘人が息を合わせるように攻撃を仕掛けた。銃、剣、刀といった物理的な武器に加えて、魔法のような異能も混じっている。
それらが一斉に虎面に向かって牙を剥いた。
――一瞬だった。
ただ一瞬のうちに手で武器を受け流され、魔法は青と桃色が混じったような何重もの魔法陣によって跳ね返された。
呆然と、あるいは痛みに眉を寄せながら立ち尽くす戦闘人を前にして、虎面は悠々と、一度指を鳴らす。
ぱちん、と軽い音が響いた。と同時に、周囲に三つの魔法陣が現れる。怪しく、されど神々しく光る魔法陣。その中から、ずるり、と何かが這い出てくる。
異形だった。皆一様に顔を隠すように犬のような耳の生えたヘルメットを被っていたり、精巧な狼のマスクを被っていたり、そもそも頭が肉食獣の骨だったりした。
人型の異形。
それぞれが着物だったり、ライダージャケットだったり、フードを被っていたり。そしてやたら細身であったり、筋肉質であったり、小さかったりしたが、虎面と同じように陶器のようにやたらと白い肌の他に、体毛に覆われた身体だとか、黒々と鋭く伸びる指先だとかが、人から乖離したものだということを本能的に悟らせた。
彼らは何秒かの間、様子見でもするかのように、ただじっと立ったままだった。
しかし、突如消えた。
否、消えたのではない。駆けたのだ。
一斉に残った戦闘人たちに向かった異形は一瞬にして彼らの懐に潜り込み――そこでザザザッと荒れた砂嵐を最後に映像は途切れていた。
これが虎面――。
思わず夢兎は息を呑んだ。
この最初で最後に虎面が大々的に現れたとされる一件では、通報ののち駆け付けた何十人もの戦闘人を一人で相手取ったばかりか、軽傷者数十名、重傷者一名の被害を出しながら捕縛も討伐もできなかったという近年稀に見る散々たる結果を残したようだ。
ゆえにこそ、死傷者は出ていないながらも伝説の敵性異人として名を轟かせているのだ。
「こらなかなか……強敵じゃのう」
夢兎は思わず頬に浮かんだ汗が伝うのを感じながら、小さく呟いた。
***
蓮はすっかり寝入ってしまった猫乃門の傍に寄ると、窓の外から輝く月を眺めていた。
月は好きだった。
そこに愛する者の姿を見るから。
その月はぼんやりと赤く光っていて、それがより一層、蓮の中で残してきた者の面影を感じさせる。
――赤い瞳の女だった。
強くて喧嘩っ早くて、下手で不器用な笑い方しかできない女だった。
その姿を思い出しながら、少しだけ笑って目を伏せた。胸の内に押し寄せる懐慕の念がどうしても消え去ってくれない。
ちらりと、隣の猫乃門へ視線をやる。豪快な大の字で無警戒に寝こけている。
その髪にそっと手を伸ばすと、いつか誰かにしてやったように一度だけ頭を撫でた。
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