第2話 そうだ、百合営業をしよう2

「レポートによると……この辺か」


 ここ最近虎面(こめん)の人型によるレポートはいくつか上がっていたし、何度かそこに赴きもしたのだが、今のところ猫乃門は一度も遭遇したことはなかった。そもそも一度現れた場所に再度現れるなど、そうあることもないだろうから仕方のないことではあったが。


 しかし、これが虎面に繋がる唯一の手掛かりならば追うしかあるまい。

 八月も終わりに近づいた夏の涼しい夜風を浴びながら、猫乃門はきょろきょろと、何の変哲もない住宅街を見渡す。車が二台ほど通れそうなアスファルトが、ちかちかと時たま点滅する街灯に照らされている。


「ま、そりゃいねえよ――」


 な、と。

 けれども、その言葉は一気にかき消された。

 ゴガンッッ!!

 突如爆発音のように鳴り響いた轟音が、彼女の鼓膜を破るかの如く震わせる。


「ッ何だ!?」


 轟音と共に目の前に降ってきたのは、薄紫のウルフカットをした女だった。髪の右側一部を三つ編みに結んでおり、瞳は水晶のような薄紫。黒の和服に髑髏がついた柄物の着物を腰に巻き付けている。装いは古風だが着こなしは妙に今風だ。

 女はあまりにも整った顔をしているので、一瞬人形にも見えたほどだったが、アスファルトに叩きつけられた衝撃か、その口元から血を零しているのを見て、少なくとも人形ではないらしいと悟る。


 しかし地面はまるで鉄球でも落ちてきたかのように崩れ、凹み、ひび割れており、もし人間であれば体がぐちゃぐちゃに砕けていてもおかしくはない。ゆえに、目の前の女は人間ではない、あるいは何かしらの異能を持った異世界人であると察した。


 そして、そのような力を持つだろう彼女でさえ、いくらか劣勢を強いられているように見える。その相手とは一体――。


 突然、ぞっと身体中の皮膚全てが粟立つような、どっと嫌な汗が全身から噴き出すような、そういう怖気と悪寒が猫乃門を串刺しにするかの如く襲い掛かった。

 全ての感覚器官が危険信号を鳴らしている。

 それでいて、何より――身に覚えのある寒気。

 じくじくじく、と右目が、傷が、うるさいくらいに主張する。


 同時に、とん、と何かが軽やかに舞い降りた。人型のそれは大きな編み笠を被っており、編み傘は縁の周囲全てに呪符のような、三角形を中心に据えた魔法陣が描かれた紙が吊り下がっている。

 白い花柄の着物に、足袋、そして呪符の隙間から見えるのは――。


「虎面――……ッ!!」


 瞬間、背負った猫型のプラスチックケースに勢いよく手を伸ばした。ガンッと衝撃を与えると上部が開き、中から柄が伸びる。ケースは金属音を響かせながら次々に形を変え、蛹の中から小さく折り畳まれていた蝶が花開くように、それは黒と水浅葱の大鎌へと変化する。


 シンプルとは言い難い、重量感のあるデスサイズ。

 そのカラーリングに加えて柄の後ろにさがった小さな猫のぬいぐるみキーホルダーと『必勝祈願』の札のせいで、ポップさもあるが、しかしギラリと光る刃は見る者を戦慄させる禍々しさがあった。

 猫乃門は重量感のあるそれを、まるで刀でも持つかのように容易く構えると。


 瞬間、――駆けた。

 何の警戒も抱いていない、無機質なその人型に目掛けて、力の限り大鎌を振り下ろす。

 ぎゅおッッ、という風切り音と共に鼓膜をつんざく轟音と衝撃波が周囲を揺らした。


 ――入った!


 そう思った。

 しかし、それはすぐに誤りだと気づいた。

 虎面は羽虫でも掴むかのごとく刃を受け止めており、猫乃門の方へ顔を向けるなり無造作に彼女の腹へ弾丸のような蹴りを叩き込んだ。


「ごッっが!!」


 唐突な強い打撃に、胃液がせり上がる。

 大鎌を持っていた手が容易く離れ、まるでボールのように身体が地を跳ねた。そのたびに、ごんっごんっと身体のどこかを固い何かで強く叩かれたような衝撃が、猫乃門を襲う。

 一つの痛みを感じる間もなく次々に襲いくる猛打の波に碌な防御態勢も取れず、ただ与えられる打撃だけを受け止めるしかない。

 あまりにも、惨めだった。


「…………ぅ、」


 ようやく身体が動きを止めた頃には、猫乃門はすっかり地に伏していた。地べたに這いつくばりながら、霞む眼で虎面を見やる。

 身体中に刃を貫かれるような痛みが走って、思考がぼんやりとする。

 ただ、それでもわかる。

 瞬殺だった。

 それも羽虫を払うがごとく、容易く。


 ――クソッ。


 かつてと同じだった。かつても何もできなかった。何もできず、ただ地面に伏した。


 ――何も変わってねえじゃねえか。


 そうだ、何も変わっていない。何も。だって、所詮自分は――。

 その時、からん、と虎面の方から何かが滑ってきた。それは狙い澄ましたかのように猫乃門の指の先で止まる。すぐさま、自身の大鎌だと気付いた。


「…………は……?」


 頭の中に、呆然と驚愕と怒りと悔しさと、情けなさが這い回り、身体中を侵食していく。

 情けをかけられたのだ、と悟った。武器を奪われては何もできないだろう、と。

 だって、所詮猫乃門は――。


「貴様、人間か」


 突然、横から声がした。鈴を転がしたような、美しく通る声。先ほどアスファルトに叩きつけられていた女だった。


「……だったら、何だっ、つうんだよ」


 掠れる声で、返事をした。女は冷徹な眼で猫乃門を見下ろしながら。


「諦めろ、人間。貴様では勝てん」


 侮蔑だとか嘲罵だとか、そういうものではなかった。

 ただの事実だった。事実ゆえの、鋭利な言葉だった。


『諦め、人間。自分には無理や』


 女の言葉を聞いた瞬間、かつて聞いた声が、再び首を締めにくる。それに続くように、似たような老若男女の声が猫乃門の脳内に響く。

 諦めろ。戦闘人(バトラー)は諦めろ、本業など諦めろ、再復帰は諦めろ、人間では無理だ。


『お前は、ただの人間なんだから』


 何度も言われてきた。自分でも、何度も考えた。何度も。でも。


「……うる、せえな」


 猫乃門は無理やり口角を上げると、再び大鎌の柄を握りしめた。

 戦闘人になるための、大層な理由なんてない。モンスターに親を殺されたわけでも、身近な誰かを敵性異人に傷つけられたわけでもない。正義だとか復讐だとか、物語の主人公が持っているような“優れた”理由はない。

 だから主人公にはなれないのかもしれない。カッコよくて憧れた、物語の主人公などには、己ではなれないのかもしれない。


 それでも。


 そんなただの、子どもじみた憧れだけでも。一度憧れを抱いて目指したあの瞬間から。自ら夢を決めたあの瞬間から。その可能性を目にしたあの瞬間から。

 ぎしぎしと軋む骨を、ぐちゅりと嫌な音を立てる身体を、それでも奮い立たせて叫ぶ。

 心の底から、全ての声に抗うように叫ぶ。


「諦められねえのが……俺の、弱点の一つなんだよッ!!」


 言うと同時に駆け出した。


 それから先は何も憶えていない。ただ刃を振り下ろして受け止められて。そんな応酬の最後に虎面によって紫色の魔法陣が生み出されたかと思うと、突然の斬撃と共に真っ赤な液体が視界を覆い尽くすように撒き散らかされて――。

 そして、ついに意識が遠のいた。


 それはまるで黒い谷底に落ちるようで、ああ、これが死ぬってことなのかな、なんてぼんやり思った。前回ではこんな記憶すらなかったから、暗闇の中に落ちていくのってこんなに怖いんだ、と初めて知った。

 全く、改めて考えても実に厄介な性質(弱点)だ。憧れなど、諦めてしまえば良かったのに。

 諦めてしまえば、こんな汚い路地の上で血みどろになることもなかったろうに。


 ――でも、それができないのが俺なんだよなぁ。


 そんなことを考えながらも何とか瞳を開けようとしたけれど――。気が付いたら目の前は果てのない暗く冷たい闇に包まれていた。

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