第9話 最悪な一日 ②
学校へ向かう途中、陽太は高さ3メートルの宙を浮かぶエアーチャリンコを勢いよく漕いでいた。もし実頼が自分より先に学校に着いてしまったら、手紙を渡す意味がなくなってしまう。だからこそ、一刻も早く到着したいという気持ちに駆られ、陽太はペダルを懸命に漕ぎ続けた。スピードは時速50キロを超えている。
そのとき、猛スピードで進む陽太の視界に突然「パサッ、バサッ!」という音とともに黒い影が現れた。
「ニャー!」
住宅街の塀から飛び出してきたのは一匹の猫だった。
「なにっ!?」
陽太は慌てて急ブレーキをかける。「ギイイイイッ!」と鋭い音を立てながら、宙を浮いていたエアーチャリンコが急停止する。振り返った陽太の目の前には、壁際に立つ黒い影があった。
「……野良猫?」
現れたのは真っ黒な毛並みの猫。猫は「シャー!」と威嚇するように背中を丸め、鋭い目つきで陽太を睨みつけた。陽太は申し訳なさそうに首をすくめ、手を合わせて謝る。
「ごめんなさい……」
すると猫は「フン」と鼻を鳴らすように顔を背け、素早く木々の枝に飛び移った。
パサッ、パサッ、トン! その音を追い目で追いかけると、黒猫はすでに屋根の上に消え去っていた。
「猫が……無事でよかった」
ホッと息をついた陽太は、再びエアーチャリンコを漕ぎ始める。今度は少しスピードを抑えめにして。
陽太が進む道中には公園があった。その公園を通りかかったとき、木々の茂みから「カッカッカッ!」という声が聞こえた。見上げると、黒豆のような目をしたカラスたちがこちらをじっと見つめている。
「何だ、今度はカラスかよ?」
すると、数羽のカラスが一斉に飛び立ち、陽太に向かって襲いかかってきた。
「カー! カーッ!」
「うわっ! やめてよ!!……」
6羽、7羽……次々とカラスが陽太の腕や首をつつき始めた。
カラスが次々と襲いかかってきて、くちばしが陽太の腕を何度もつつき、服の袖が引き裂かれる。痛みに耐えながら、陽太は必死でペダルを漕ぎ、エアーチャリンコのスピードをさらに上げた。時速60キロに達する頃、なんとかカラスたちを振り切ることに成功した。
「はぁ……黒猫を見た後にカラスに襲われるなんて、今日は一体どうなってるんだ……」
肩を落としながらも、陽太は再び気を取り直して進む。
やがて白大理石で作られた美しい学校の壁が目に入った。その壁には玄武岩の石板に「郡立陵星高校」と刻まれている。
ついに学校に到着した陽太は、エアーチャリンコをほんの少し浮かせたまま、ハンドルをしっかり握って校門をくぐる。そして玄関の下駄箱の前に立つと、自分の名札「赤星」が書かれた棚を確認した。
時計を見ると時刻は7時30分過ぎ。周囲に人影はなく、誰にも見られない今がチャンスだった。
――よし、今のうちに……
陽太は鞄から水色の封筒を取り出そうとしたが、慌てた拍子に封筒を床に落としてしまう。
――こんなときに限って……早く拾わなきゃ……
ドキドキと胸が高鳴る中、陽太は封筒を拾い上げた。
そのとき、玄関のドアが開き、鼻歌を口ずさみながら嬉しそうな表情の実瀬が入ってきた。陽太は咄嗟に手紙を自分の下駄箱に入れると、素早く廊下へ駆け込んだ。
――見られてないよな……?
ちょうどその時、鼻歌交じりで宝くじの一等賞が当たったかのように上機嫌な顔をした実瀬が玄関から入ってきた。
靴を脱ぎ、細い指先でそれを取り上げると、床に踏み入りながら自分の下駄箱を探すように顔を上げた。その瞬間、彼女は不審な行動をやっていた陽太を見た。
リップクリームを塗った唇が、驚きの感情を抑えるようにわずかに開いている。周囲に他の生徒がいないことを確認した後、実瀬は拳を胸元に当て、微かに笑みを浮かべた。その笑みには、困っているような表情が混じっているようにも見えた。
「1年B組」の教室に戻った陽太は、自分の席に腰を下ろした。
窓から数えて二列目の一番後ろ――いつもの席だ。ラブレターを渡したことを思い返すだけで、彼の呼吸は速まり、心臓が太鼓のように高鳴っていた。
「日野くん、おはよう!」
元気で親しみのある女子の声に驚き、陽太は振り向く。そこには、明るい笑顔の実瀬が立っていた。白地に瑠璃紺のセーラー服、赤いスカーフと金色のラインが特徴的な襟。そして、長い脚にはサイハイソックス。そんな姿の彼女は肩にカバンをかけ、陽太の目の前に立っている。
陽太はその笑顔に見とれて、顔を真っ赤に染めた。
「
「あれ? 今日はなんだか気分が違うみたいだね?」
照れ臭そうに笑みを浮かべる陽太は、片手で髪をかきながら答える。
「えっと……気分転換、みたいなものです」
そう言う陽太の瞳は、紫外線によってプラズマボールのような光を放つカラコンをつけている。それは最近の若者の間で流行しているファッションアイテムだ。
実瀬は彼の言葉に一瞬だけ目を細め、どこか笑っていない硬さのある表情を浮かべたが、すぐに柔らかい口調で続ける。
「そうなんだ……よくわからないけど。その……ありがとうね。じゃあ、約束通り、また午後に会おうね?」
陽太は緊張した面持ちで頷き、表情を引き締めた。
「はい。また後で」
実瀬は教室の黒板の方を向き、他の女子生徒たちと話し始めた。その姿を見送った陽太は、ふと鋭い視線を感じて振り向くと、男子生徒三人がこちらを睨んでいるのに気付いた。
実瀬は透明感のある容姿と、誰に対しても笑顔で親切に接する性格から、入学早々にクラスの人気者になっていた。一年生はもちろん、上級生にもその名は知れ渡るほどだ。一方、陽太は決して人と話すのが苦手なわけではないが、趣味が独特で、授業以外の話題にはほとんど興味を示さない。そのため、自然とクラスでは少数派に属し、浮いた存在になりがちだった。
そんな陽太が実瀬と親しくなれたのは、入学前に偶然知り合ったことがきっかけだった。同じ学校、同じクラスに分けられたことで、自然と会話する機会が多くなった。それが原因で、男子生徒の間に妙な嫉妬を生むことも少なくない。
しかし陽太は、三ヶ月間のやり取りで築いた自分たちの関係を信じ、ついに告白を決意した。
実瀬の席は教室の入り口から7列目、第二列の最後から三番目。陽太の席から見ると、斜めにちょうど彼女の顔がよく見える絶妙な位置にあった。
本日の午前中の授業は特に何も起こらなかったが、実瀬がたまに不意に陽太を振り返ることがあるのに対し、今日は一度も彼を見ていなかった。授業に集中している彼女は頬杖をつき、手に持ったタブレットペンをくるくると回している。無表情なその顔は、何かを深く考えているようにも見える。
休憩時間や化学教室への移動中も、彼女と話す機会はなかった。女子グループと談笑する実瀬は、男子生徒たちの漫才のような会話にも笑顔で相槌を打ち、いつも通りの明るい姿を見せている。
――赤星さん、今日も元気いっぱいだな……
陽太にとって、彼女の笑顔は太陽のように眩しく、周囲の人を自然と明るくする力があるように思えた。その笑顔を見るだけで、自分も元気になれる気がするのだ。たとえその笑顔が自分に向けられていなくても。
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