春の夜の夢

総角ハセギ

春の夜の夢

 三十五歳になったばかりのあの春に、わたしはたった一人でその山奥の屋敷を訪ねた。

 そこは地元の人さえもめったに近寄らぬ場所だった。ろくに舗装されていない急斜面がえんえんと続くうえに、集落からもかなり離れている。街灯も通りがかる車も一つとしてない。夜になれば山道を獣の牙に怯えて孤独に歩くしかない、そんな場所だった。

 慣れない山登りに苦労して屋敷へ着いてみると、かつてはさぞかし立派であっただろうお寺を想像するようなくたびれた古木の門の前に、二十代前半くらいの若い男の人が彫像のように直立してわたしを見ていた。彼は案内の者だと言って、わたしを屋敷の中へ連れて行ってくれた。

「あの。もしかしてあなたは里井さんのご家族ですか」

 何となく気まずい沈黙に耐えかねて、ぱっと思いついた質問を投げかけたわたしに、若い彼は感情のない視線を一瞬だけ向けてつまらなそうに返答した。

「いいえ、違います。私はただの弟子です」

 弟子、とあまりなじみのない単語に一瞬とまどいつつ、わたしは頷く。

「そうですか。でも、里井さんはどなたかと一緒に暮らしてらっしゃるんですよね?これだけ広いお家ですもんね・・・」

「わかりません。私は先週ここにきたばかりなのです。それに先生は、ご自身のことをあまり話されませんので」

 それは昔からだ。

 彼と話を続けたいという気持ちがあまりわいてこず、わたしは口を閉じてそれ以上何も聞かなかった。

 弟子だというその若い男性がわたしを通したのは、軽く三十畳を超えていそうな板敷の広間だった。壁は全て障子になっている。それらが全て開け放されて、四方を外の風が通り抜け、庭園の緑が背景を埋め尽くしていた。

 中央に、里井がいた。あれから十年余りの歳月が流れていても、質素な着物を纏い姿勢良く正座した彼の顔が頭からかけられた白いベールに隠されて確認できなくても、わたしにはそれが彼だとわかった。何故わかったのかを説明することは今でもできない。でも、わかった。それだけははっきりと言える。

 ふと弟子がしゃがみ込み、床をコツコツ、と拳で叩いた。

 その様子を怪訝そうに見ていると、弟子は真顔でわたしを見上げた。

「どうぞ」

 弟子に促されて、わたしは靴を脱いで床板を踏み、そうっと里井に近づく。彼は座ったまま眠っているのだろうか。わたしが近づいていっても何も反応がない。

「里井くん、久しぶり」

 わたしはそう声をかけてみた。

 だが、彼は微動だにしない。ベールが微かに揺れる程度に、静かに息をしている。まるで美しい仏像のようだった。

 わたしは弟子を振り返った。

「あの・・・もしかして眠ってらっしゃるのでは」

「いいえ」

「いや、でも」

 弟子はわたしを見つめ返した。

「先生のお顔をご覧になりますか」

 不意にそう言って弟子は静かにわたしの横を通り過ぎ、里井のそばまで行くと、彼がかぶる布をゆっくりとめくった。

 その瞬間、息が止まった。

 耳が両方とも・・・ない。里井の耳が根本からすっぱりと切り取られてなくなっているのだ。

 それだけではなかった。ベールがめくられた直後は閉じていた瞼がおもむろに開いたかと思うと、そこにはあるはずの目玉がなかった。二つの丸い闇がぽっかりと口をあけている。

 驚愕と恐怖に身をすくませたわたしが何も言えずに立ち尽くしていると、すっと里井の唇が開いた。

「・・・西野君。彼女に、そこへ腰を下ろして頂きなさい」

「はい、先生」

 弟子に何度も目で強く促され、ようやくわたしは座った。けれども膝に重ねた両手は震えたままだ。

「驚かせてしまってすみません。数年前に目も耳もとったんです。邪魔だったものだから」

 何も見えていない、聞こえていないはずなのに、彼はまるで見えている、聞こえているかのように、うっすら微笑みながら、淡々と話した。

「また会えて嬉しいです。鈴木さん」

 わたしはしばらくの間、何も言えなかった。何て言ったらいいのかわからなかった。だって目の前の相手には今、耳も目もないのだ。

 でも彼は里井だ。わたしが知っている『あの頃の里井』を過去に持つ人だ。

 わたしはぐっと唇を引き結び、両膝を使って床をあえて軋ませ、音が出るようにして里井に近づいた。いきなり触るのはまずいだろうかと少しためらってから、結局片手をゆっくりと伸ばし、シャボン玉に触れるようにそうっと白い指の一本に触れてみる。冷たく、心臓まで凍りつきそうな指だった。里井は驚いた様子なく、わたしに向けてなのか、ふっと頬をやわらかくして微笑んだ。

 わたしは複雑な気持ちで彼の顔を見つめた。両目のない、あの時より年齢を重ねた顔。それでも彼は不思議なほど美しかった。

 記憶が刺激される。瞼の裏に、まるで一瞬の煌めきのようであったあの頃の思い出がよみがえる。

 わたしは里井の指先に触れた自分の指を、彼の手の甲に進めた。

 その手を里井が握り返した。

「里井くん。今日はありがとう。その、時間を作ってくれて。わたし・・・」

「記事を書きたいそうですね」

 里井が静かに言った。

「僕に協力できることがあれば、何でもしますよ。何から話しましょうか」

 里井はどうやってわたしが話した言葉を理解しているのだろう。

 考える隙もなく里井は言葉を続ける。わたしに真っすぐ、眼球のない目を向けながら。

「僕たちが出会ったのは大学三年の春でしたね。講義と講義の間の休憩時間に、非常階段で偶然」

 確かにそうだ。でもわたしの方は実を言うと里井のことをもっと早くから知っていた。

 あの頃、里井は女子によくもてた。顔だちが良く、人と群れないミステリアスで大人っぽい雰囲気がうけたのだろう。彼は周囲の女子たちの雑談に時々登場して場を盛り上がらせた。だが里井はそのうちの誰とも親しくなることはなかった。

 どんな美人が近づいてきても彼は全く興味を示さず、いつも顔をしかめて彼女たちを見ていた。いつからか里井は女子が嫌いなのだと噂になっていたが、彼がそのような反応をするのは女子だけでなく男子に対しても相手が教授であっても同じで、わたしはそんな彼をいつもどこか不思議な気持ちで眺めていた。

 思いがけず話すきっかけができたのが、里井の言う大学三年の春だ。

 その頃わたしは一年ほど付き合っていた同学部の同級の男に酷い扱いをされたうえ屈辱的な振られ方をされて、毎日のように泣いていた。その男の顔を見ることも気配を感じることも辛くて辛くてたまらず、休憩時間のたびに人が来ない非常階段に逃げ込み、そこで化粧した顔をぐちゃぐちゃにして大泣きしていた。

 そんなある日、里井とばったり出くわしてしまった。彼は一瞬驚いたようだったが、ぎょっとしたわたしが逃げ去るよりも早くにハンカチとティッシュを取り出して、わたしにそっと差し出してくれた。

「どうぞ」

 わたしはそれをためらいがちに受け取った。羞恥心で顔がじわじわ熱くなっていくのを感じながら。

「すみません、こんなみっともない」

「そうなんですか?」

 里井は妙にとぼけた台詞を平然と言うのだった。気を遣ってくれたんだろう。あの時のわたしはそう思った。

「ありがとうございます、里井さん」

 思わず名前を言ってしまってから、アッと口を閉じたわたしに里井はやわらかく微笑んだ。

「構いませんよ、鈴木さん」

 わたしたちはお互いの名前を知っていた。

 それからというもの、わたしと里井は学内で互いを見かけると会釈するようになり、そのうちちょこちょこ足を止めて話すようになった。

 里井はお昼休みにはいつも人気のない裏庭のベンチを選んでそこに一人で座っていた。

「こんにちは。今日は晴れですね」

 わたしは彼を見つけるとそう声をかけた。大学生がそんな挨拶をするのは変かとも思ったが、里井はいつも嫌な顔をしなかった。

「こんにちは。そうですね、良い天気です」

 そうしてわたしたちは並んで座りながら、若者があまりしないような話題でとりとめもない話をし、チャイムが鳴ると別れて、帰り道に姿を見かけると大学の最寄り駅まで一緒に歩いて帰るのだった。四年生に進級するともっと長い時間を共有するようになった。

 わたしにとって里井と過ごす時間は特別だった。退屈で窮屈な大学生活が、里井という存在で色づくようになっていた。

 けれどあの日を境に、その時間は突然終わりを迎えた。

 ある休講日に、わたしと彼は都会のオアシスと呼ばれるような場所まで足を運んだ。そこで里井は、わたしにおもむろに、酷く苦しそうな顔をして言ったのだ。

「僕には君が化け物に見える」

 確かにわたしは男からしてみれば美しくもないし可愛くもないだろう。そんなことは小学生くらいの頃から既に周囲にいやというほど意識させられてきている。でも、そんな言い方はいくら何でも酷いではないか。わたしの傷ついた心の中で、里井の姿に元彼の幻影が重なった。わたしは憤慨した。それ以来、わたしたちは話さなくなった。

 そして里井は、突然大学から姿を消した。

 その後、わたしは就職やら何やらで余裕がない日々を過ごし、不安の果てに興味もない会社で別にやりたいわけでもない仕事をしていた。

 大企業、正社員、安定、社会に蔓延する偽りの精神安定剤の服用効果が途切れることを恐れて、結婚、出産、ワークライフバランス、義務化された強制参加の人生ゲームのマスに止まれない自分に焦りながら、気づけば大学を卒業して十年の月日が経過していた。

 そんなある日、上司に連れられ参加したパーティーである男に出会った。

「君、あそこにいる樋口先生を知っている?」

「知りません。どういう方なんですか」

「いやぁ変わった人でね。とにかく奇怪なものを研究しているんだ。何か協力してくれるかもしれないよ。ほら君、今社内新聞担当だろ?たまにはいつもとテイストが違うおもしろいものを書かなきゃ仕事なくなるぞ。紹介してあげよう」

 わたしは思いがけず樋口という老齢の研究者と会話をかわすことになった。

「樋口先生が研究されている奇怪なものとは、例えばどういったものなんですか?」

 わたしの質問に樋口は何やらにやりとしつつ真剣な声音で答えをよこした。

「我々だよ」

 苦笑いを浮かべたわたしに樋口は真面目な面持ちで続けた。

「かつてホモ・サピエンスはネアンデルタール人を滅ぼした。それと同じように我々人間は今、長い年月をかけて滅ぼされようとしているのだ。我々が化け物と呼ぶ者たちの手によってね。目を背けたくなるような事実だが、現在この地球上には実はホモ・サピエンスは一握り程度にしか存在していないんだ。ほとんどが化け物にとってかわられた。我々の正体は、怪物なんだよ」

「根拠はあるんですか」

 頭ごなしに否定するのは良くないと訊ねてみると、樋口は余裕たっぷりの笑みを浮かべてジャケットの内ポケットから何かを取り出す動作をした。

「あるとも。知りたいかね」

「はい」

「それなら彼に会って話を聞いてみるといい。我々の真実の姿が見える、おそらくこの世で唯一の人間だ。彼はその特別な目で人々の正体を見抜くことができる。我々の人間の皮の下にある、醜い化け物の姿をね」

 そう言って樋口が見せてくれた手帳の一ページ、そこに書かれた名前と貼り付けられた写真。それが、里井だった。

「・・・ミえるようになったのは、多分十一歳くらいの時だったと思います。体育の授業中に目にちょっとした怪我をしたんです。医者に失明すると言われて、その後すぐに手術をしました。そして術後目を開けると、それまで普通としか言いようがなかった両親の顔が、裂けた口から牙が突き出た赤ら顔の化け物に見えました。両親だけでなく、すれ違う人全てが化け物に見えるようになったんです。僕は周囲にこのことを訴えましたが誰も信じてくれませんでした。手術のショックということで話は片付けられてしまいました。それから数年後に、どこからか僕の話を聞きつけた樋口先生が僕に会いに来たんです。先生は様々なことを教えてくれました。手術をきっかけに思いがけずフィルターをはずされた僕の目は、この世の真実が見えるようになった」

 里井はそこで息を吸った。

「それ以来僕は、というものを認識できないんです」

 里井が美人と言われる女たちをまるで相手にしていなかったのは、彼女たちの顔が見えていなかったからだったのだ。あの時、涙と崩れた化粧のせいでぐしゃぐしゃになったわたしの顔を見た彼は、とぼけたのではなかった。ただ彼には見えていなかっただけなのだ。わたしの深層を覆い隠した偽善の仮面が。

 ある時、大学からの帰り道、里井と共に少しだけ遠回りをして夜の街を散歩したことをふと思い出した。

 真昼のように明るい夜の横断歩道で交差していく人の群れの動きを、わたしたちはぼんやりと立ち止まって橋の上から見ていた。わたしはふと隣に立つ里井を見上げ、その切なげな横顔に問いかけた。

「あれ、里井くんにはどんな風に見えてるの」

 特に意味もない光景を見たわたしの、特に意味はない質問だった。夜風に髪を揺らした里井は、こちらを向いて悲しげに微笑んで言った。

「化け物の大行列」

 僕には君が化け物に見える。

 あれはわたしに対する侮辱ではなかった。あの時彼はわたしに、自らの苦悩を打ち明けようとしていたのだ。人に理解されることのない苦しみ。馬鹿にされて終わる悲しみ。逃げ場のない恐怖への吐露。

 もしあの時、話を続けていたら、里井の辛さを軽減してあげることができたのだろうか。彼の心を救うことができたのだろうか。現実の辛さを共有し、互いの手を取り合い、どんな時も支え合って生きていく、痛みの中で確かな希望を抱ける未来を築くことができたのだろうか。

 彼はこれからどう生きていくのだろう。

 誰かに恋をするのだろうか。もうしたのだろうか。

「鏡で今の自分の姿を見たことはあるの?その・・・目を摘出する前に」

 下世話なことを聞いてしまったと言葉が口から出た後で激しく後悔した。けれども里井はにこりとしたままだ。

「あるよ」

 どうだったとは聞けなかった。

 でも里井は答えてくれた。

「この世で一番醜い怪物が写っていた」

 またある日のことを思い出した。それはわたしが里井に少しだけ、うっかり自分の容姿への不満を漏らしてしまった日だった。

 彼は真顔で言った。

「君は醜くないよ。人の醜さ美しさを決めるものは心のほかにありえない。でもそれを見ることは普通の人には難しいから、誰でも判断しやすい外見に逃げているだけなんだ。嘆いたりしないで。君という心はとても綺麗だよ」

 わたしは照れ隠しに早口になった。

「でも、やっぱり外見は気になるじゃない」

「外見は僕には意味がないよ」

 今なら、里井がそう言った意味がわかる。

 ある時わたしはこうも訊ねた。

「里井くんの夢は?スポーツ選手とか、IT系?」

「・・・人間を探すこと」

 変だよね、と付け加えて里井は苦笑する。

「・・・・・・こんなに化け物だらけの世の中だけど、僕はまだこの世のどこかに人間が生きていると信じてる。生きていてほしいと思ってるんだ」

 あれから、彼は本物の人間を見つけることはできたのだろうか。

「さっき、目も耳も邪魔だったと言っていたでしょう。それはなぜなの。目は何となく想像がつくけれど、耳までとるなんて・・・」

「見ることにも、聞くことにも、疲れてしまったんです。見たくないものを見ないようにすることも、聞きたくないことを聞かないようにすることも、僕にはできませんでした。目を閉じても耳を塞いでも、そこかしこから残忍な顔や凶器のような言葉が次々と頭に流れ込んでくる。僕たちの目や耳はそういうものをすすんで取り入れてしまうような作りになっているんです。だから、そんなものはなくしました。でもそれがなくても、今あなたとこうして会話ができているように、僕には視覚と聴覚がちゃんと残っています。使い方を知らないだけで、僕たちは皆心の中に本当の目と耳を持っているんですよ。それさえあれば外装はどうだっていいんです。見えない目も聞けない耳も、そもそも本当の人間には必要のないものでした」

 わたしは黙って彼の言葉を聞き続けた。

「人間には、自分以外の誰かを完全に理解することはできません。でも彼らは理解しようと心がけることができます。ところが化け物にはそれができません。彼らは己の価値観を押し付け、世界中の他人が自分の理想通りの生き方を歩むことを望みます。そして、それと合わないことがあると、口や指で攻撃するんです。この世は魔法なんてなくても簡単に人の命を奪える地獄になりました。そこに蔓延るのは見て見ぬふりをする化け物たちです。つまり、僕たちのことですね。人間に似た化け物は、長い時間をかけて社会の中に広がっていき、本物の人間たちをひっそりと殺していきました。本来なら人間は賢く、慈悲深く、愛情があり、頭で考える生き物です。でも今は絶滅の危機にある。このままでは知らないうちに、人間もまた、これまで殺してきた数々の生き物と同じように滅び去るでしょう。・・・でもね、僕たちにはまだ僅かな救いが残されているんですよ。鈴木さん」

「救い?」

 里井は微笑んだ。

「良くも悪くも化け物は人間に似ている。ならば、たとえ今は化け物であったとしても、もし彼らが本気で本当の人間になろうとすれば、きっとできるはずなんです。遺伝子は全てを決定したりしません。僕たちはまだ人間になることができます。そこに必要なのはどんな法律でも制度でもない。ただ、自分自身の心だけ」

 里井はふっと笑みを消して、わたしを心の目で射貫くように見つめた。

「あなたは、化け物のままでいたいですか?」

 この目に映るものが本物であると証明するものはあるのだろうか。

 上べだけの都合の良い世界を見てはいないだろうか。

 自分は罪のない者だと思っていないだろうか。

 誰かに自分だけのルールを、あたかも世界のルールのように、常識という存在しない透明なものの名前を使って押し付けていないだろうか。

 自分は誰のことも殺していないと思っていないだろうか。

 顔の側面に備わった耳には、上部に備わった目には、必ずフィルターがかかっている。それは時として真実をごっそり取り除いてしまう。使われない器官は退化する。心はやがて本当の耳と目を失ってしまう。

 無常にも日は暮れ、そろそろお暇しなければならない時間が来た。

「さようなら、鈴木さん。あなたの幸せを祈っています」

 里井は最後にそう言って、仏のように穏やかな顔で微笑んだ。

 わたしは迷った。里井にこの気持ちを伝えるべきだろうか。

 結局わたしは、こう言うことにした。

「絶滅したと思われていた動物が発見された時嬉しくなるって、ずっと前に言っていたでしょ、里井くん。わたしには未来が何となくわかるような気がするの。人間は絶滅したりしないよ。きっとまだどこかに人はいて、いつかまた化け物に代わって地球の一部になるの」

 まだ話していたかった。聞きたいことが山ほどあった。けれどもう終わりだ。

 雲の漂う赤い空が、音もなく吹く冷たい風が、木々の緑が、わたしと里井の人生の交わりの終焉を言葉なき言葉で告げている。わたしたちはまた別れる。そしてきっと、もう二度と会うことはないだろう。

 わたしは急にこみ上げてきた涙を必死にこらえて、笑った。

「あなたに人の姿が見れますように。さようなら」

 わたしは里井の弟子に見送られて屋敷を出た。坂道を下る途中で振り返ると、遥か遠くで黒い影のようになった門が厳かに閉じられていくのが見えた。

 里井の静かな海のような微笑みと、ゆっくりと閉じていく門。目の奥によみがえったあの日の記憶は、具現化することができずとも、確かに今もここに存在している。

 それから一月もしないうちに、その屋敷は廃墟になった。

 久しぶりに立ち寄った樋口の研究所でそれを聞いた日の夜、わたしはその足で、大学時代に彼と見たあの夜景が見下ろせる橋を訪れた。

 人は変わっても、あの頃とさほど変わっていない景色がそこには広がっていた。

 眠らない都会のネオン。サラリーマン、若者、老人、子連れ、忙しない大勢の人々が交錯する夜の横断歩道。同じ景色を見ながら異なるものを見つめていたあの時のわたしたち。

 わたしは一人で橋を降り、その群れの中に無言で身を投じた。

 この世の誰にも、自分以外の誰かの本当の心を知ることはできない。だからわたしは里井を、勝手な憶測をして、勝手に彼を哀れんだり、美しく飾りたてたりはしない。彼の人生に意味や解釈を与えて誰かを満足させるようなこともしない。ただ思い出を見つめ、それから前を見るだけだ。見えないけれども確かにある前を。見えないものだけを見つめて、形を捉えることのできないこの命が尽きるその日まで、ただ心の目だけを開いて、心の耳だけをすませるようにして、生きていけばいい。

 わたしたちは今からでもまだ人間になることができる。

 まだ遅くはないと信じている。


 ***


 その後。

 わたしが書き上げた記事はコンプライアンス上の問題があるとして削除され、そこには代わりに小学校の道徳の教科書から丸写しした文章が飾られた。



                *完*

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