第5話 旦那様

 目の前にいる男性が誰だか分かったと同時に私はその場にひざまずいた。さっき厩で奥様にひざまずかされたからやり方は分かる。


「ア、アレックス様……わたくしは……」


 奥様は青い顔をしてワタワタしている。さっきまで恋する乙女のような表情してたのに、どうしたんだろう。


「ベア?」


 この家の主で奥様の夫である旦那様が不思議そうな顔をして奥様に話しかけている。

 奥様の名前はベアトリスというらしい。そして『ベア』っていうニックネームで呼ばれてるらしい。それってかなり仲良いのでは?


「それで、この子は誰?」


 旦那様の目が私に向いた。途端に奥様の方から殺気っぽい何かが漂って来る。

 やだこわいこわいやめて!


「今日、新しく雇ったメイドですわ」

「き、君はメイドに殺気を向けるのかい?」


 信じられない、とでもいうような目を旦那様は奥様に向けた。奥様は青い顔をして黙っている。少し表情が絶望しているような気がする。


 やっぱりあれは殺気だった。こんな女がわたくしの最愛の夫の興味を引くなんて! 殺してやるぞ、オラア! って感じの視線だったもんな、あれは。


 はぁ。私、旦那様に手を出す気なんか全くないのにな。奥様はいつ信じてくれるんだろう。

 大体何でこうなった? ユニコーンだとか名乗る変な馬のせいですね、はい。


「この方はこの家の主人のアレクサンデル・エインピオ様です。ご挨拶なさい」


 私がポップコーン馬を恨んでいる間に奥様は立ち直ったらしく、偉そうな態度で命じて来る。これは強制ではないようで、怪し……ご、ご立派な魔法は使われてはいないようだ。ただ、私は奥様の使用人なので命令には従わなければいけない。


「今日からこの家で働かせていただく事になりました。如月萌絵。えーっと、こちらで言えばモエ・キサラギと申します。よろしくお願いいたします」


 その言葉に旦那様がぎょっとして奥様の方を見る。なんだか咎めているような目つきだ。

 え? 私、変な事言った? 言ってないよね? 名乗っただけじゃん?


「え、えっと……?」

「ベア? 何で貴族を雇った?」


 き、貴族? 私のどこが貴族に見えるの? 旦那様おかしくなっ……すみませんっ! おかしくなんかありません!

 ……奥様、お願いですからいちいち睨むのはやめていただきたいのです。


「ベアトリス?」


 旦那様の声が低くなった。怒ってますね。私貴族じゃないのに。


 本当の事を話した方がいいだろうか。でも奥様は気を悪くするかもしれない。でも話さないと旦那様は奥様に怒ったままだし。


 奥様、奥様。真実を話してもいいですかー?


 そっと心の中でお伺いを立てる。奥様が小さく頷いた。


「あの……」

「どうしたんだい? 働かなきゃいけないほど生活に困っているのかい? それほど貧乏なのかい? うちに援助でもお願いしに来て、ベアトリスに働けとか言われた?」


 なんか貧乏扱いされた!? めっちゃ心外なんですけど。あのポップコーンめ……。あ、それは馬のせいじゃない。


「私は貴族ではありません」


 とりあえずこれは主張しておく。旦那様がきょとんとした。


「貴族じゃ……ない? 没落したのか?」


 めっちゃ失礼だ、この旦那様。奥様も私に同感なのかこの心の声を咎めたりはしなかった。


「私は異世界の人間です」


 大事な事だけ言う。旦那様が息を飲んだ。


「この家のユニコーン様にこちらに無理矢理連れて来られたんです。ユニコーン様は私を返してくれると言っていたんですが、何故か奥様の許可が下りなくて、とりあえずここで暮らしなさいと言われてしまったんです。お願いです! 私はこの世界の人達には何もしません。ただ帰りたいだけなんです! どうか奥様を説得していただけませんか?」


 必死に訴える。旦那様の伴侶として呼ばれたとか余計な事は言ってないからいいでしょ。


 旦那様は私の言葉を聞き終えるとため息を吐いた。そうして奥様の方を向く。どうやら説得してくれるらしい。頑張ってください、旦那様!


「『異界の乙女』か?」

「ええ。『異界の乙女』です」


 また乙女とか言われた。こっちの世界では常識なのかな。私、別に乙女なんて性格してないけど。


「だったら大げさになる前に帰してしまった方がいいのではないか?」

「そうするべきなのでしょうが……」


 旦那様の説得に奥様が言葉を濁す。


「実はメイド長が屋敷内で大騒ぎしてしまいまして……」


 え? 別にメイド長が騒ぐくらい良くない? どういう理由よ、奥様。全責任をメイド長に押し付けるなんてひどくない?


 私はそう思ったんだけど、旦那様はそれで丸め込まれてしまったようだ。『それは困ったね』などと言ってため息を吐いている。

 ちょっとー! 困ってるのはこっちなんですけどーっ!


「でもベアならどうにか出来るのではないか? 君はこの国で五本の指に入るほどの魔法使いだろう?」

「……。対処は考えます。もう少しお待ちくださいませ。とにかく、今、この子が住める場所はここしかないのですから、ここで過ごしてもらいます。その方が……」


 そこまで言って奥様は言葉を切った。彼女の視線が私に向く。口角が意地悪そうに上がってるのがはっきり分かった。どう考えても『ニヤリ』って感じの笑いだ。怖すぎる。『魔女』って感じ。


「……しっかりとわたくしの目が行き届くでしょう?」


 うふふふ、と明るく笑っているが、その声のどこかが黒い。

 私、これからどうなるんだろう。大丈夫だよね。生きられるよね?


「あまりいじめるんじゃないよ、ベア」


 旦那様もちょっと引き気味だ。それを見て奥様が怯む。


「た、ただ、この世界はそんなに甘い所ではないとモエに教えただけですわ。この子にとってこれからが大変なのですから」


 奥様が恐ろしい事を言い出した。大変ってどういう事だろう。これから奥様にこき使われるってこと? それとも他の何かが待ってるの?


「さ、モエ、夕食まであと半時間ですよ。早く着替えなさいな」

「え?」

「食べそびれるわよ。お腹空くわよー」

「あ、はい!」


 なんか誤摩化された気がする。でも夕飯は大事だ。大体、この世界に来てから何も食べてない。私もお腹がすいた。


「ありがとうございます、奥様。これからよろしくお願いします」


 二人にきちんと挨拶をしてから私はあてがわれた部屋に入る事にした。目の前だったからすぐだ。


 殺風景な部屋だ。最低限の敷物や家具は置いてある。でもそれ以外は何もない。きっとメイドの部屋はみんなこんな感じなんだろう。後はメイド自身が飾り付けやら何やらするんだと思う。そうして自室らしくしていく。


 私はここで一から生活をしなければいけない。それをしっかりと突きつけられてしまったようだ。

 唯一いい所は個室だということだろうか。ここなら泣いても誰も気にしないかもしれない。


 すぐにじわりと溢れそうになった涙をこらえる。今は泣いている場合じゃない。もうすぐごはんだから。


 それにしても本当に私はここでやっていけるのだろうか。少なくとも奥様は私をこき使う気まんまんだし、心配だ。旦那様はいい人そうだけど、かばったらかばったで大変な事になりそうだ。


 ため息を吐きながらクローゼットを開ける。奥様の言った通り、仕事着と寝間着がそこにはきちんと数着あった。残ったハンガーは私服をかけるものだろう。

 あと、どこに行ったのだろうと思っていた私の学生鞄がクローゼットの床に置いてあった。没収はされてなかったみたいでほっとする。中身を調べられたりはしてそうだけど。


 とりあえず着替えなくてはいけない。この異世界の服では浮いてしまう。


 制服を脱ぎ、仕事着に腕を通す。ちょっと大きいかな、と思ったその服は腕を通した途端にサイズを変えた。私のサイズに。


 え? なんか怖いんですけど。まさかこれ奥様特製? 『魔法使い』だとか言ってたし。


 とりあえず気にしない事にする。気にしたら負けだ。


 制服についてた藁はしっかり払ってからゴミ箱とおぼしき箱に捨てておいた。


 さっきまで着てた制服をかけたハンガーをラックにかける。そのカチャンという音が、私を元の世界から切り離したような気がした。

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