古山信彦のアトリエと甘いチョコレート

ラトヒル

古山信彦のアトリエと甘いチョコレート

 正面には真っ白なキャンバス。鉛筆を握ってもう何時間が経つのだろうか。

 線を書かなければ絵は完成しない。そんなことは分かっている。だが、どうしても手が動かない。

 師匠の古山信彦ふるやま のぶひこが死んだ。90歳超えの大往生だった。

 一人残された私は葬式にも行かず、このアトリエで筆を握っている。

 それが供養になると思ったからだ。


 今まで私がこのアトリエで絵を描くときは常に師匠と一緒だった。だが、師匠はもういない。

 いつものアトリエが何か全く違う場所のように感じられた。

 気晴らしにアトリエ内を見渡す。目に入るのは師匠の作品の数々。

 そのどれもが荘厳そうごんで美しい。

 ____これから私はこれを超えて行かないと駄目なのか?

 そう苦悩していると、どこかに置いたスマホが震える音が聞こえた。

 何時もなら無視するのだが、集中を失っている今無視をする理由はどこにもない。

 ゆっくりと腰を上げ、スマホの元へ赴く。そこに表示されていたのは、海野 健司うみの けんじからの着信通知だった。


 「あの馬鹿野郎か……いまさら何の用だ?」


 海野 健司うみの けんじ、昔は親友と思っていたこともあった。今更会いたくもない。

 私はスマホをそのままにして、キャンバスの前に座りなおす。

 だが海野の顔を思い浮かべると不思議と描きたい物が沸々と湧き上がってくる。


 私は感覚に身を任せてゆっくりと線を描いてゆく。


 今思えば、私の青春はあの馬鹿野郎との青春だった。

 

 確か、出会いは小学生の頃だったか。



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



「岸部君、次は悟空描いてー」


 授業が始まる前の空き時間に友達にそんなお願いをされた。


「いいよー」


 僕はそう返事をして、黒板にチョークを押し付ける。

 お題は今話題の漫画の主人公だ。どうやらスーパほにゃらら人になるとかならないとかでクラス中が話題にしていたの知っている。

 このキャラクターなら簡単に描ける。何度も練習した。手慣れた動きで目、鼻、口を描く。そしてそれをカクカクとした輪郭で閉じ込めて、そこにギザギザの髪の毛を乗せた。最後に黄色のチョークで髪の毛を塗りたくれば完成だ。


「すっげーー岸辺君って絵が上手いよねー」


完成した絵を見て友人が褒める。それがなんだかこそばゆくて、素直に受け止めきれない。


「いや〜〜それほどでもないよー」


「なんでそんなに上手に描けるのー?」


「はは、こういうのはコツがあるんだよー」


 絵を描くのが好きだ。誰に言われた訳でもない。物心ついた頃には絵を描くことが好きになっていた。

 だからこそ僕がこの小学校で一番絵がうまいんだろう。根拠はないが自信はある。


「おーい、全員席に座れー」


 先生が教室に入って黒板に書かれた絵を消しながらそう言った。

 勝手に絵を消されることにちょっとモヤモヤする。だけどそれについて何か言えることもないので、黙って先生の命令に従う。


「突然だが今日からこのクラスに転校生が来る事になった。おい、入ってこい」


 ドアを開けて入って来たのは男だった。身長は少し低く、僕よりも拳二つ分小さかった。

 それなのに髪の毛はもとても長く、目を見ることもできない。なんとなく暗そうな子だなぁと思った

 その子が、ぎこちない動きで教壇の前まで歩いて行く。


「自己紹介しろ」

 そういって先生が転校生にチョークを渡した。それを受け取ると転校生が黒板に文字を書いて行く。クラスの皆はそれを一言も発さずに見つめていた。皆どう反応したら良いか分からない様子だった。

 チョークを黒板に擦り付ける音だけが響くなんとも居心地の悪い間が生まれた。


「海野 健司うみの けんじです。よろしくお願いします」

 転校生は自分の名前を書き終えると、とても小さな声で自己紹介して辞儀をした。


 え?それで終わり?


 余りの味気なさにクラスの全員がなんの反応も返せなかった。それを見かねて先生は拍手をした。

 それにつられ全員が拍手をした。


「海野の席は岸辺の横が空いているからひとまずそこに座ってくれ」

 先生はそう言って僕の隣の席を指差す。

 転校生は黙ってうなずいて、オドオドと僕の隣の席に座る。

 僕は「よろしく」と言おうとしたが、顔をそらされてしまってなんとなく言えなかった。


 この転校生、なんだか話しかけにくいなぁ……

 これから仲良くできるのかな?なんだか不安だ。





 海野君が転校してきてから一週間経っても、会話らしい会話が出来なかった。

 なんというかやはり、話しかけにくいのだ。


 海野君はとても変わっている子だった。

 休み時間に一人でずっとノートに何かを書いていて、サッカーや鬼ごっこに全く興味がない。

 それにいつも何かに怯えているみたいで、誰かから話しかけられると口癖のように「ゴメン」と謝ってくる。

 そんなもんだから、クラスのみんなはどうしたら良いのか分からず、まるで腫れ物を扱うようだった

 僕も似たようなもので、正直いって海野君とどう接したらいいのか全く分からなかった。


 さらに時間が経つと、誰も海野君の相手をしなくなってきていた。

 海野君には転校生というラベルが外れ、限りなく空気に近いクラスメイトの一人になっていた。

 僕も海野君のことは「そういう奴」という認識で、特に関わることもなかった。


 学校で勉強して、漫画のキャラクターを書いて友達に褒められて、外で遊んで、家でご飯を食べて寝る。

 そんな毎日を送っていると、いつの間にか冬休み前の全校朝礼の日になっていた。



「全校朝礼ってなんのためにあるんだろうね」

「さぁ〜?」


 友達の何気ない疑問に適当に答えながら体育館に渋々歩いて行く。

 体育館についてしばらくすると、校長が現れて全校朝礼がはじまった。

 それを確認して僕はすぐさま話を聞き流す体制に入る。校長先生や全然知らない人の長話を聞いてなんの徳があるのか。僕には全く理解できなかった。なので僕はこうしてボケーとただ立つことにしているのだ。

 そうすることできっと時間が早く過ぎ去る。


「______海野君、前に出てきなさい」


 校長先生の口から聞き覚えのある名前が出てきたのではっと我に返る。

 今、海野君の名前が呼ばれたよな?と友達に確認すると友達は頷いた。

 話を全く聞いていなかったので、なんで海野君が呼び出されたのか分からない。

 周りがザワザワと騒ぎ始める。こんなに騒ついた全校朝礼を見たのは初めてだった。

 海野君は一体何をしたんだろうか?


 呼び出されて、壇上に登って行く海野君。

 その姿にはいつものようなオドオドした態度がなく、どことなく自信がというものが感じられた。

 海野君が校長先生の前に経つと、校長先生が長ったらしい口上を述べてから「おめでとう」と表彰状を海野君に手渡す。


 __どうやら海野君はある絵画コンクールで最優秀賞を取得したらしい。


 そう認識した時に、地面がぐらつくような錯覚をした。

 海野が?この僕を差し置いてで賞をとっている?


 ドンドン身体中が熱くなっていく。身体中の血が逆流しているのかもしれない。頭の中で思考がグルグル回る。僕は怒っているのだろうか?名前の分からない感情に体が支配されて行く。


 気が付いたら僕は走り出していた。ただひたすら自分の描いた絵が見たかったのだ。

 なぜそんな気持ちになったのか分からない。たぶん自分を励ますためなんだと思う。

 教室にたどり着いて、僕の自由帳を開く。そこにあったのは僕が今まで描いてきたイラストたち。そのどれもが漫画の名場面を忠実に再現できている。

 うん、大丈夫だ。僕の絵は上手いんだ。

 ふと、海野の描いた絵が気になった。

 どしどしと海野の机に近づいて言って、その中身を地面にぶちまけた。そしてその中から一際ボロボロになっている自由帳を手に取る。

 熱くなる体を強引に落ち着かせて、そのノートを開く。

 最初にページに書かれていたのはただの木のイラストだった。


 なんだこんなものか。


 確かに上手だが、このくらいなら僕にも書ける。そう思いながら次々にページをめくって行く。

 沢山の絵が書かれていた。学校のいろんなところをスケッチした絵。海野自身の自画像。見たこともない風景の絵。めくればめくるほど絵は進化していく。絵はドンドン細かくなっていき、違和感がなくなって行く。


「なんだよこれ……」


 ふと床に目をやると他にも自由帳があることに気がついた。それも一つや二つじゃない、沢山の自由帳が転がっていた。その中から一番真新しいものを拾って適当なページを開く。


 __そこに書かれていたのは、だった。


「……」


 僕はそれをじっと眺める。どれほど固まっていたのかは分からない。

 気がついたら、今度は自分の自由帳を開いていた。

 見なければいいのに。今見たらきっと後悔する。頭の片隅では理解していた。なのに体は勝手に動く。


「クソだ……」


 海野の絵の後だと、自分の絵がラクガキに見えた。模写にもなっていない稚拙なキャラクター達。

 自分の個性というものも何もない無意味な絵。僕はこんなものを描いて満足をしていたのか。僕はこんなものでこの学校で一番絵が上手だと思っていたのか。腹から何か熱いものが頭に登っていくのを感じる。僕はそれに耐えきれなくなって、いつの間にか叫んでいた。

 次々と自分の自由帳のページを破り捨てて行く。そうでもしないとこの体の熱が収まりそうもない。

 身体中に熱がドンドンドンドン溜まって行く。これは恥ずかしいという気持ちなのだろうか。それとも怒っているのだろうか。それとも嫉妬?分からない。とにかく複雑で子供じみた感情が僕を貫いていた。


 気がつくと僕を探しにきたであろう先生が教室に帰ってきていた。悲惨な状態になっている教室を見るやいなや僕を怒鳴りつける。それから何が起きたかはあまり覚えていない。

 とにかく海野を見返してやりたいという気持ちが生まれてきたことだけは覚えていた。


 


 ◇



 そして長いような短いような時間が過ぎ去って小学校を卒業し中学に通うようになった。

 海野も同じ中学校に進学している。実の所ほっとしている。

 なぜなら、今や海野は唯一無二の親友になってしまったからだ。


 海野がコンクールに受賞する事件が発生してから、俺は何かが吹っ切れたように絵を書き続けていた。

 友達からの遊びの誘いも全て断って、授業中も全て聴き流してずっと絵だけを描いていた。

 先生に怒られようが関係がない。自分の中の価値観が何処かおかしくなってしまったと思う。

 そんな状態なのだから、海野と話すようになるのは時間の問題だった。

 自分がライバル視していた人間はいつの間にか師匠のような友人のような存在になっていた。

 一緒に絵を描いていれば自然と仲が深まって行く。

 悔しいが、放課後に海野と絵の話をするのは何よりも楽しかった。


 また、海野も変わっていった。

 前のようにオドオドした態度は無くなり、社交的になったと思う。

 友人も覚えきれないほど増えていた。あの長くて鬱陶しい髪型もいつの間にか変わって、明るく快活なものになっていた。海野曰く、「受賞したことでなんだか自信がついたんだよ!」とのこと。



 そして中学校に入って3日が経とうとしていた。

 学校は相変わらずホームルームばかりで、何も代わり映えしない。俺たちも小学校の時と同じく絵を描くだけなのだから、毎朝行く場所と制服を着なければならないという制約以外何も変わっていなかった。



「ねぇねぇ岸辺君、今日の美術部の活動一緒に見に行こうよ」

 放課後に海野が自分の元にやってきてそう提案してきた。


「美術部か……」


 言葉を口の中で転がす。美術部、興味がないと言えば嘘になる。

 ただ、海野以上の人間に会えるとも思えない。行く価値があるのだろうか。ただ単に面倒臭いしがらみが増えるだけな気がして億劫だった。


「入る意味があるのか?」


「とりあえず見てから判断してみても遅くないとおもうよ?」


 海野がそう催促する。俺はそれに「見るだけならまぁ」と返事をした。

 海野と並んで、美術部が活動している教室まで歩いて行く。

 途中、吹奏楽部のお世辞にも綺麗とも言えない音が聞こえてきた。「ああ、皆部活動を頑張っているんだな」と独り言をいってみると海野が「あたりまえでしょ」と笑った。

 そうか、中学生にもなると部活をしないといけないのか、今更ながらそんな文化を知った。


 そして、海野と「どんな美術部だったらいいな」とか「どんぐらいのレベルなんだろうねー」とか、そんな他愛のない雑談をしながら歩いていると、いつの間にか演奏の音が遠く消えていった。

 代わりにあたりは静寂に包まれ、目の前に美術部の扉がドンと構えていた。

 扉についた小さな窓から中身を覗いてみる、中にいるのはどれも女子生徒だ。

 そしてみんな絵の前で喋っていた。不思議なことに誰一人として筆を握っていなかった。


「誰も絵を描いてないのか?」

 素直に疑問に思ったことを口に出してしまう。


「まぁ、まだ入学式が終わったばかりなんだからそういう日もあるんでしょう」

 海野がそうフォローをするが、何か嫌な予感がする。そんな自分とは対照的に海野のテンションがやけに高いのが気になった。

 ちょっとすると、俺たちに気がついた部員が扉を開けてくれた。


「もしかして見学の人?」

 メガネをかけた女性の方が尋ねてきた。ネクタイを確認すると3年生のものなので、おそらく先輩なのだろう。

 海野は「はい、見学しにきました」と返すと、彼女は「そっか!」と笑顔で迎え入れてくれた。


「一応、私がここの部長なの。よろしくね!」彼女がいうと、海野が「僕は海野 健司と言います」自己紹介を始めるので、俺も慌てて自己紹介を行った。

 その姿を見て彼女は少し笑った。何が面白いというのだろうか。


「緊張しないでいいよ、ここは割と気楽な部活だからー。ねー?」

 部長がそのように他の部員に尋ねると、同意するように「ねー」と返してくる。それを見て自分の中の嫌な予感が増していく。


「この中だと、やっぱり部長さんが一番絵が上手なのですか?」

 思い切って訪ねてみると、部長は軽い感じで「そだよー」と返事をした。他の部員も頷いているので間違いではないようだ。


「もしよろしければ部長さんの絵を見てもいいですか?」

 そう尋ねてみる。海野が小声で「おい、いきなりすぎるだろ」って言ってきたがそれは無視することにした。


「まーいいよ~確かに私の絵が一番気になるよね〜!」

 そういって部長は一つの絵の前に案内する。この絵が部長が描いたものなのだろうか?僕と海野がその絵を値踏みするように見つめる。


「……」


 ……下手ではない、だが上手でもない。素人よりは綺麗に描けているのだとも思う。

 だけど、海野の方が圧倒的に上手な絵を描けている。この絵から学べるものはない。

 彼女の絵はもう僕たちが過ぎ去った地点にあるものだった。


「……この絵はいつ頃描かれた絵なのですか?」

 何かを察して海野がそう尋ねた。


「えっと。二ヶ月前に完成したかな。私の作品のなかだと一番新しいよ!」


「なるほど……」


 そう答えた海野の顔は少し暗くなっていた。その顔は暗に三年間描いてこのレベルなのかと語っていた。


「……えっと私の絵って変?」


 部長がそう尋ねる。なんと返事しようかと悩んでいると海野が先に答えた。


「いえ、素敵な絵だと思いますよ!」


「本当!?よかったー!!反応が微妙だからこわくなっちゃった!」

 部長がそういうと、海野は軽く笑って誤魔化した。海野は本当に社交的になった。


「それでどうかなー?うちの美術部、入る気になったかな?」


 部長さんが軽く尋ねてくる。

 この部活にはいる意味はあるのだろうか?一番絵が上手い人でこのレベルなら学べることはない。

 僕には意味を見出すことができなかった。


「そうですねー自分は入ってみたい気持ち結構あります」


 海野がそう答えるので自分はぎょっとした気持ちになった。


「おい、海野」


 自分は小声で話しかける。それだけで海野には伝わったのか苦笑いを作った。


「岸辺も一緒に入ろうよ」


 海野がそう言った。俺は、どうしたんだろうか。

 海辺が入るのなら、入ってもいいのかもしれない。改めて部長の描いた絵を見る。何度も見ても惹かれる物が無い。

 この部活に入っても得られる物はないだろう。それは海野もわかっているはずだ。

ならば俺が入部しなければ海野も入らないはずだ。だから俺は____


「俺は……別にいいよ……」


「そっか、じゃあ僕だけでも部活に入ろうかな」


 耳を疑った。海野はこんな部活に入るつもりなのか?こんな低レベルな部活に?

 一体何故なんだ。理解できない。小学校の頃のように一緒に絵を描いていればいいじゃないか。こんな部活は海野の才能に相応しくない。


「……っ」


 こんな時だというのに言葉が出てこない。海野を引き止めるための言葉が。思いを口に出せず、心の中で止まってしまう。


「海野がそうしたいなら……それでいいと思う……」


 自分の口から出たのは全く思ってもいなかったセリフだった。なんで俺はこんなことを言ってしまったのか。


「そっか……」


 海野の悲しそうな顔が印象に残る。

 こうして僕たちの道が別れてしまった。


 


 ◇




 半年がたった。あれから俺は毎日一人で絵を描くことが増えていった。

 海野は部活に忙しいといって、一緒に話すことが少なくなった。

 俺だけの師匠だった海野は、いつの間にか美術部の師匠になってしまったようだった。

 それならば、それでいい。俺は俺で絵を描くだけだ。そもそも、絵を描くのに他人なんて必要ない。絵は一人でも描けるのだ。

 そう思うと色々なものが煩わしく感じるようになった。学校に行く必要もないし、授業を聞く必要もない。絵の分からない表面上の友達なんて欲しくもない。

 だからなのか俺は自然と不登校になっていた。


「こんな絵では海野には勝てない。またやり直しだ」


 絵をまた一つ押し入れの中にねじ込む。

 薄暗い電灯の灯りに満たされた六畳程度の自室。

 もうずっとこの部屋から出てはいない。ここでただひたすら絵を描き続けていた。

 トントントンとドアがノックされる。この音の感じは母さんだ。


「なに?」


 わざと低い声で尋ねる。それを部屋に入ってもOKの意味だと思ったのか、母さんが勝手に部屋に入ってきた。俺はそれを見て舌打ちで答える。

 いつものように学校に行けと説教をしたいのだろうか。正直、うんざりとしていた。なんであんなところに行かなければならないのか。その意味がないと何度説明しても分かってくれない。

 だからいつも喧嘩になる。


「今日も学校に行かないの?」

 母さんがオドオドにした声で尋ねる。その態度がまた俺をイラつかせる。


「そうだけど。なに?」

 イライラを隠さない声色で答える。


「……いえ、別に」


 何かを言いたそうに母さんは黙り込んでしまった。一体何がしたいんだ。何もなければ俺の邪魔をしないでほしい。

 とても険悪な時間が生まれた。互いに黙っていると母さんが何かを思い切ったのか、一つのチラシを俺に手渡す。『古山信彦の世界』そのチラシには大きな文字でそう描かれていた。


「何これ?」


「美術作品の展覧会みたい。こういうの興味あると思って、お金なら出すからたまには外に行ってみるのはどう?」


「……」


 俺は少し考え込む。チラシには『古山信彦、現代に残る絵の巨匠。70年超えのキャリアから生み出される数々の作品は、まさに芸術の一言』そんな煽り文句が描かれていた。

確かに一度、画家の作品をみてみるのもいいだろう。プロの画家というものがどのような絵を描くのか興味はあった。


「無理にだとはいなわないけどね?本当に気が向いたらなんだけど」

「わかった」

「え?」

「この古山って人の個展に行くって言ってんの」

「ああ、そう……よかった……」


 母さんが安堵した様子でそう言うと、ゆっくりと部屋から出ていった。



 ◇



 『古山信彦の世界』俺は生涯この衝撃を忘れないだろう。


 どこか軽い気持ちでいった展覧会だったが、自分の想像以上のインパクトを残した。

 あまりにも壮大な世界観。そして細部にまで拘った緻密さ。

 絵のプロというのはここまでレベルが違うのか。古山信彦の絵と比べると、天才の海野の絵がどこか下手に思えてしまう。

 それほどの衝撃だった。


 この古山信彦の絵について誰かと共有したい。そう思うと海野の顔が浮かんでいた。


 いつぶりだろうか、海野の家に電話して近所のハンバーガー屋に誘う電話をした。

 海野は二つ返事でその誘いに乗ってくれた。あいつはまだ俺の友達で居てくれたようだ。



 久しぶりに会う海野はまるで別人のようだった。小学生の頃の面影は全て捨て去っていたようだった。

 髪の毛にはワックスをつけており、服装もどこかイケているものになっている。態度も明るく、何もかも順調だというツラをしていた。


「久しぶりだな」

「そうだね、久しぶりだね」


 ハンバーガー屋の適当な席を確保して一番安いハンバーガーを注文する。そうやって長居するのが、お金のない俺たちの駄弁だべり方だ。

 

「それにしても海野、なんていうか変わったな」

「岸辺に言われたくないよ」


 そうか。そうかもしれない。髪の毛は伸びたい放題、服も小学生の頃から全然変わっていないシワくちゃだらけの服。海野が光なら俺はまるで闇だ。


「岸辺って最近なにしてんの?」

「決まっているだろ、絵を描いているんだよ」

「そっかーまぁ岸辺ならそうするだろうなと思ったよ」

「ハハハ、まぁな」


 他愛のないちょっとした雑談をしてから、満を辞して古山信彦の衝撃についてい海野に語った。

 多分、早口で支離滅裂だったと思う。ただただ思いつく限りの熱意を一方的にしゃべっていた。それだというのに海野はしっかりと聞いてくれた。

 一通り喋り終えると海野はゆっくりと口を開いた。


「岸辺は将来画家になりたいの?」


 海野の無邪気な問いに俺は少し悩んだ後「そうかもしれない」と答えた。

 海野は「そっか……」と一つ前置きを置いて、「岸辺ならなれると思うよ」と答えた。


 俺はその言葉を聞いて、何故だかとても嬉しくなった。なんとなく、舞い上がるような気持ちだった。初めて海野に認められた気がする。「そうかな」俺の返事はとても浮かれているものだった。


「もしよかったらなんだけど」

 海野がもったいぶった前置きをする、そして少し考えたのか、一つ間をおいた。


「岸辺君を古山信彦…さんに会わせることできると思うよ」


「……え?」


 一瞬何を言っているのか理解できなかった。遅れて、古山信彦本人に会わせてもらえる機会があるということを理解した。


「まじで!?なんでそんなことできるの!?」


「実はその古山信彦さんと知り合いなんだ。あっ、親がね?」

 海野は取り繕うように言った。

そうか、海野にはあれだけの才能があるのだ、だから家族にもそういう繋がりがあってもおかしくはない。なんとなく海野の才能の理由が見えてきた。


「会わせて!俺、古山信彦に会いたい!」


「ものすごく嬉しそうだね」


「ったりまえだろー!」


 古山信彦に会える。あんなにすごい作品を作る人に会えるのだ。興奮して当然だと思う。

 逆に海野がなぜそんなに落ち着いていられるのかの方が不思議だ。


 突如、ピロピロという聞きなれない電子音のようなものが流れた。


「あ、ちょっと待ってねー」 

 

 海野がポケットから何か四角い物体を取り出した。


「なにそれ?」


「え?知らないの?ポケベルってやつなんだけど」


「ポケベル?」

 初めて聞く単語だ。それがなんなのか全くわからない。


「ああ……えっとこれはね、遠く離れていてもメッセージが受け取れる物なんだよ」


 そういって、その四角い物体の画面を見せる。そこには『11014』という数字が書かれていた。


「なにこれ数字?どういう意味?」


「あーこれは会いたいって意味なんだよ。こんことにな感じで数字でメッセージを受け取れるのがポケベルってやつなんだよ」


「へーー」

 興味なさげに返事をする。そんなことはどうだっていい。


「岸辺はもっといろんな興味を持った方がいいんじゃないかな」


「まぁ、それを知ったところで絵が上手くなれるわけでもないしな」


「……そっか。呼び出されたからさ、僕はもういくよ」


「おい、ちょっと待てよ。古山信彦に会わせてくれるって話はどうなったんだよ」


「ああ、アポが取れたらまた電話するねー僕の彼女は待たせるとうるさいからさー」


「彼女!?」


 俺がそう驚いていると慌てて海野が立ち去って行った。海野……お前、彼女が居たのか。

 何か嫉妬とも憧れともつかぬ感情が胸によぎる。


「そっかー……そっか……」


 海野が居なくなった席で俺はただ一人そう呟いた。




 ◇

 



 数日後、海野から連絡があった。

どうやら、古山信彦が会ってくれるとのこと。俺は舞い上がって、海野に何度も何度もお礼を伝えた。

 その様子を見て母さんが「何事なの?」と聞くので俺は笑顔で古山信彦に会えるんだと伝えた。それを聞いて母さんはにっこりと笑った。


 そして古山信彦と会える日がやってきた。場所は隣町の山奥にある古山信彦のアトリエだ。古山信彦がこんなに近くに住んでいるとは驚きだった。

 母さんが車を運転して、アトリエまで送ってくれた。


 アトリエは意外なことに少し大きな古い民家のようだった。

 地面に這いつくばるように立っている木造の家が、コンクリート製の柵で囲い込まれていた。玄関までぬれぬれとした石畳が続いており、入り口は引き戸で小さい。 雑に飾られた『古山信彦』の文字がなければ、本当にここがあの古山信彦のアトリエなのか確証がもてないほどだった。


「失礼が無いようにするのよー」

 

 母さんが車の中から伝える。俺はそれに「うん」と返事をした。

 そして落ち着いて深呼吸をすると、俺はゆっくりとインターフォンを鳴らした。

 心臓がドキドキする。1秒1秒が遅く感じる。俺はあの古山信彦に会うのだ。何もできずに固まっていると、玄関が開いた。


 そこに現れたのは、柔和な笑みをたたえたお婆さんだった。高そうな和服をきており、その所作からどことなく気品を感じさせる。これが古山信彦?


「え?女性の方だったんですか?」

 思わず声に出してしまう。


 それを聞いたお婆さんは上品に笑った。


「ホホホ、私は古山さんじゃありませんよ。私は妻の花子と申します」


 顔が熱くなるのを感じる。しまった飛んだ無礼を働いてしまった。


「岸辺さんですね?話は伺っております。こちらへどうぞ」


 花子さんがそう案内するので、俺は「よろしくお願いします」と挨拶をしてからそれについて行く。

 玄関を潜るとそこはまるで異世界だった。数々の絵画が所狭しと飾られていた。一見無造作に置かれているように見えるが、不思議と調和が取れているように思えた。


「すごい……」

「これらは主人がどこからか集めてきた作品なんですよ。気に入った絵があるとすぐに買ってしまって。全く、困ったものです。買うたびに絵の配置が変わって大変なんですよ」


 花子さんがそう説明してくれた。なるほどと相槌をして花子さんについて行く。

 歩きながらジロジロと絵を眺めていると、一つどこか見覚えのある絵が飾られたいた。俺は思わずその絵の前で立ち止まってしまう。


「海野……?」


 その絵の額縁には「海野 健司」と書かれていた。なんでここに海野の絵が?いや、考えるまでもない。きっと古山信彦にその才能を見込まれてここに飾られているのだろう。


「どうかしましたか?」

「いえ、なんでもありません」

 俺はそう誤魔化した。海野は俺が思っている以上にすごい人物なのかもしれない。


「この扉の向こうに主人がいますので、あとはごゆっくり」

 花子さんがそう伝えると、自分を置いてどこかへ戻っていった。俺は花子さんに向かってお礼をすると前に向き直す。目の前には大きな扉。

 そうかこの先に古山信彦がいる。再び緊張が胸に登ってきた。ゆっくりと何度も深呼吸を繰り返す。

 そして覚悟を決めた、その瞬間__


「おい。入るならさっさとしろ」


 そんなしゃがれた声が聞こえてきた。


「はい!」と裏返りかけの声で返事をする。慌てて扉を開けた。

 そこには、綿麻めんあさ甚平じんべいを身にまといキャンバスの前で座り込んでいる老人がいた。


「あなたが古山信彦ですか?」

 自分がそう尋ねると、老人は目を釣り上げた。


「先生をつけろ先生を」

 若干、怒気をこめた声でそう言われる。それにハッとした。そうだ自分はなんて無礼な態度を……!


「す、すみません!!」


 自分が思う以上の大きな声がでてしまった。それを見て気をよくしたのか古山先生は手招きしてくれた。強ばった顔は崩れ、優しそうな顔になる。


「おい、坊主。名前は?」


「岸辺 誠と言います!」


「そうかそうか、元気がいいな」


「ありがとうございます!」

 緊張しすぎて自分が正しいことを言っているのかがわからない。ただただ一言一言が嬉しくて仕方がない。何故か涙がちょちょぎれてきた。


「まぁ、ちょっと落ち着け。坊主はなんのために会いにきたんだ?」


「えっと……」


 なんのため?しまった理由なんて考えてもいなかった。ただ会ってみたい。その思いだけだった。だからええと、なんていえばいいんだ。


「古山先生が作品を作る所を一度生で拝見したくて……」


 さっきまで思っていなかった理由が口から出てくる。いや思っていなかったと言えば嘘になる。自分も画家を目指す身としてはどうしても絵を描く所を見たかったのは本当だ。だから、これも嘘ではない。



「そうか……ちょうどいいな、今、絵を描こうとしていた所だ」


 そう言って古山先生は筆を握る。そして全身を使って大胆に真っ白なキャンバスを黒に変えて行く。


「すごい……」

 

 これが古山先生、偉大な巨匠が絵を描く姿か。自分とは比べ物にならない。というか何もかもが違う。迫力も、速さも、大胆さも、手法も。


「後ろで黙って見てろ」


 古山先生がそう言うので、息を殺して立ち尽くす。

そこからどれほどの時間が経ったのかわからない。ただただ、圧倒されるだけの時間だった。この時に見た光景は生涯わすれることはないだろう。自分の思い出の中の最上位にピッタリと当てはまった。


「これで完成だ」

 古山先生がそう呟いた。


「これで完成……」


 古山先生の絵がまた一つこの世界に生まれ落ちた。偉大だ。自分はなんて素晴らしい機会に立ち合ってしまったのだろうか。


「ありがとうございます!」

 気がついたら大声で感謝を述べていた。

 古山先生はそれをみて「そうか、そうか」と言って笑っていた。


「コーヒー準備できましたよ」

 花子さんが真っ黒なコーヒーを二つお盆に乗せて作業場にやってきた。

 古山先生はまるで当たり前のようにそのコーヒーを受け取ると一気に飲み込んだ。


「ほれ、坊主も飲め」

 古山先生がそう言うので「失礼します」と言ってそのコーヒーを飲み込む。びっくりするほど甘ったるいコーヒーだ。だからこそなのだろうか、緊張で溜まった疲労がどこか消えて行くような気がする。


「うまいか?」と古山先生が尋ねるので、僕は思った通りに「とても美味しいです!」と返事をした。


「だろうな。家内が入れるコーヒーは世界一位だ」


「もう、そんなに褒めても何も出ませんよ!」

 花子さんが上品に笑いながらそう謙遜けんそんした。


 この二人はなんていうか、幸せという概念の塊のように思えた。長年ずっと一緒にいたのだろう。そう確信できる二人だった。


「時に坊主、ワシの作品はどうだ?」

 古山先生が尋ねる。

 自分は改めて古山先生の作品を見つめる。

 力強い筆遣いで書かれた水墨画。自分なんかが評価をつけることすらおこがましい。だけど、この絵はこの前の古山先生の個展で見た絵と比べるとどこか物足りなさを感じた。


「ええと……素晴らしいと思いますが……」


「どうした、ハッキリ言ってみろ」


「……なんというか、これはまだ完成ではないというか物足りないというか…」


「なんだと!!」

 古山先生がいきり立つ。僕はそれに怯えて、すみませんすみませんと何度も謝った。


「もう、アナタも人がわるい」

 花子さんがそういうと、古山先生は笑顔でガッハハと笑った。


「すまん坊主。お前の意見は正しい」


「え?」

 すっとんきょんな声が出てしまった。


「坊主。さっきお前に見せたのはただのパフォーマンスだ」


「ぱ、ぱふぉーまんす?」


「ああ、人に絵を描く所を魅せるための描き方。普段からあんなバカみてぇに体を動かして描く訳ねぇだろ。そんなことしたら体は疲れるわ繊細なタッチはできないわでまともな作品ができるわけねぇ!!坊主、お前の評価は正しいかったわけだな!!だがな、これをすると観客が喜ぶんだ!そんでお金ももらえるって寸法よ!ガッハッハ」

 古山先生が機嫌が良さそうに豪快に笑いながら教えてくれる。


「は、はぁ……」

 

 自分はそんな生返事をすることしかできない。自分は何かに正解したのだろうか?


「坊主、お前センスがあるな。絵は描いているのか?」


「ええ、一応。ずっと描いています」

 本当にだ。自分でも呆れるほど絵しか描いていない。

「坊主、お前でよければ、ワシが絵を教えてやろう」


「え!?いいんですか!!」


「ああ、いいとも。お前は才能がある」


 才能がある。才能がある。才能がある。その言葉が頭の中で何度も反芻はんすうされる。それが自分に才能があるという意味だと理解すると、溢れんばかりの感情の奔流ほんりゅうが襲いかかってきた。

 目から、涙が、溢れてきた。


「もう、あなた泣かせるんじゃありませんよ」


「な、これはワシが悪いのか?す、すまん」

 そう古山先生がいうと花子さんが笑うので、自分も笑ってしまった。そして古山先生も笑う。

 自分はこんな幸せな場所にいていいのだろうか?とても、とても嬉しかった。




 これがきっかけで自分は古山先生、いや、古山師匠の弟子になれたのだった。



 ◇



 師匠に絵を教えてもらえる生活は幸せの一言だった。

 あの憧れの古山信彦に教えてもらえるのだ。画家を目指す上でこれ以上に光栄なことはないだろう。

 ただ毎日のように古山師匠のアトリエに行くと、古山師匠に学校に行っていないことを怒られた。「学校に行かないのなら、ワシからも絵を教えることはない」と脅されたので、仕方がなしに学校に通うようになった。母さんもそれ見て、泣いて喜んでいた。その時になって自分は申し訳ないことをしていたとようやく分かったのだ。

 学校が終われば師匠のアトリエに行って絵を描く。そして次の日も学校に行って絵を描く。そんな毎日を過ごしていた。

 そして中学2年生になったある日、師匠から課題を出された。それは全国の中学生が参加するコンクールで賞を取れ、というものだった。このコンクールはハッキリ言ってレベルがかなり高い。だが自分ならば大丈夫だという自信はある。


 それにあの海野も出場するはずだ。だからこそ僕は青春の全てをこのコンクールに捧げるつもりだ。



 放課後の美術教室。女子に囲まれて駄弁っていた海野を見つけた。


「海野ちょっといいか?」

「岸辺か、いいよ」


 そういって、海野は周りの女子に謝る。その姿もどこか小慣れていて、海野は本当にいい男になったんだなと静かに感動した。

 

「それで一体なんのようなのさ?」

「お前もあのコンクールに出場するんだろ?」

「ああ、お前ってことは岸辺も参加するの?」

「ああ、そうだ。師匠にそこで賞を取れって言われてしまってな」

「なるほど……岸辺なら簡単に賞が取れるだろうね」


「俺もそう思っている。だからさ、それだけなら面白くないだろ?」

「どういう意味?」


「海野、俺と勝負をしろ」

 海野の目がかっと開く。心底驚いたようだ。言葉にならない声を静かに発して、飲み込んだ。

 

「……どっちの絵の方が上の賞が取れるか勝負だ。まぁ俺は当然、最優秀賞を目指すがな」

「……うん、わかった」

「今日はそう宣戦布告しにやってきた。じゃあな」

「うん。バイバイ……」

 そう言って俺たちは別れた。俺が絵を描く場所はここじゃない。師匠のアトリエだ。


 ついに、あの海野と勝負だ。自信はある。俺だってずっと練習してきたんだ。あの海野にも負けない作品が作れるはずだ。

楽しみになってきた。



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 ああ、確かにこの時までは海野とは親友だった。若い頃の思い出を糧にキャンバスに色を塗っていく

 師匠が死んだというのに、海野との思い出ばかり出てくる。

 それほどまでに自分と海野は深く繋がっていたのだなと思った。


 だがもうあの頃の関係には戻れないだろう。


 あの日のことはまだ許せない。それほどまでに衝撃的なことだった。


 プルルルルとスマホがもう一度震える。

 そこに書かれていたのはやはり『海野 健司』の文字。あいつもしつこい男だ。


 私はスマホの電源を切って、再びキャンバスの前に座った。そして、筆先に黒の絵の具を浸けた。



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 コンテストに作品を提出まで一週間を切った。

 俺は自分の作品は順調だ。間違いない、これは俺の人生の中で一番の作品になるだろう。

 ふと海野はどんな作品になっているのだろうか?そんなことが気になった。


 自分は早起きして、まだ朝の霧が残る学校にやってきた。そして、海野の作品が置かれているであろう美術教室をのぞき込む。

 ……予想通りだれもいない。自分はできるだけ音を鳴らさないように忍び込んだ。


 そして、布がかかったキャンバスを一つ一つ確認して、海野の作品を探し出す。

 それにしても、海野以外の部員の作品はやはりレベルが低い。こんな作品ではあのコンクールに出してもなんの意味もないだろう。

 なかなか海野の作品が見つからない。どこにあるのだろうとフラフラしていると、準備室にまた確認していないキャンバスが置かれていることに気がついた。まるで隠すように置かれているそれはなんとも怪しげだった。意を決してキャンバスにかかった布を外す。予想通りキャンバスの裏側に海野の名前が書かれていた。この絵が海野のものでで間違いない。


 そこに書かれていたのは_____


「なんだよこれ……」




 放課後の学校の屋上。海野をここに来るように呼びつけた。

 そして今、屋上の扉が開く。そこに現れたのはもちろん海野だった。


「岸辺がいきなり呼ぶなんて珍しい。一体なんのようなの?」

「海野、これがなんなのかわかるか?」


 そういって海野に布に包まれたキャンバスを見せる。海野は一瞬で全てを察したようだった。


「……勝手に見たの?」


「そんなことはどうでもいい!!これはどういうことだ!!!」


 海野のキャンバスから布を取り外す。そこに描かれていたのは、いや、描かれてなどいない。ただ真っ白なキャンバスがそこにはあった。

 そしてタイトルには『真っ白な未来』とだけ描かれていた。



「……どういうこともなにも……そういうことだよ」


「これがお前の作品ってことか!?」

 怒り混じりに尋ねる。


「ああ!!そうだよ!!それが僕の作品だ!!」


「ふざけんじゃねぇ!」

 人生の中でも一番声が出たのだと思う。気がついたら俺は海野の胸ぐらを掴んでいた。


「バカにするのも大概にしろ!こんな小学生のトンチみたいなのがお前の作品というのか!?これがお前の絵なのか!?」


「それの何が悪い!?それが芸術なんだ!」


「てめぇ!お前がそんな奴だと思ってなかった!」

 俺は海野の顔面を思いっきり殴りつけた。


「痛いなぁ!なにするんだ!」

 海野も反撃して俺を殴りつける。それは重く重く俺の頭に響いた。

 こいつなんていいパンチをしやがる。


「はは……いてぇ……」


「そっちが先に殴るから……」


「なぁ、海野もう一度聞かせてくれ、この作品をお前は出すつもりなのか?」


「……そうだよ」


「そうか、だったら……こうしてやる!!!」

 俺は海野の作品を足で破る。そして唾を吐きかけた後にぐちゃぐちゃにして屋上から投げ捨てた。


「岸辺ぇええええ!」

 海野から今まで聞いたことのない声が聞こえた。そして、さっきよりも重い一撃が俺の脳をゆらす。

 俺の意識はそこで途切れた。




 目を覚ますとそこはベッドの中だった。見覚えのあるカーテンから察するにここは保健室なのだろう。

 つまりどうやら自分は気絶したらしい。なんと貧弱なのか。乾いた笑いが出てきた。

 俺が目覚めたことに気がついたのか、保健室の先生がカーテンを開ける。


「喧嘩?」そう尋ねられたので「ええそうです」とだけ返事をした。


 

「そう……若いからってあまり無茶をしないように」

 そう言い捨てると保健室の先生はお茶を用意した。

 自分は促されるままにそのお茶を飲み込む。血の味がした。


「しょっぱい」


「でしょうね」





 海野がいないコンクールは俺が最優秀賞を取得した。

 それから、卒業まで海野と話すことは一度もなかった。



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 いつの間にか目の前のキャンバスが真っ黒に染まっていた。

 いかん、いかん、私は何をしているのだ。思い出に呆けて絵を台無しにするなんて。

 一度落ち着こう。いつも花子さんがやっていたように自分もコーヒーを作る。これでもかと砂糖を入れた、とても甘ったるいものだ。

 長いことこのアトリエにいるとこれで心が落ち着くようになってしまった。


 気分が整ったらまたキャンバスの前に座り直す、今度は筆に白色をのせる。

 それは海野が『真っ白な未来』とか下らないことをほざいた色だ。



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 俺は高校には進まなかった。

 ずっと師匠と一緒に絵を描きたかったからだ。もちろん親に反対された。師匠にも反対された。だけど、俺の意思は硬い。何度も何度も説得して、根負けする形で認めてもらった。

 それから俺と師匠はずっと一緒だった。師匠の個展に自分の絵を載せてもらったこともある。その時に自分のことを弟子と紹介してくれた。とても嬉しかった。そうだ俺は師匠の弟子なのだと、師匠がより誇れるように、より一層絵に励むようになった。

 だけど、ふとした時に海野のことが頭によぎる。海野はなぜあんなことをしたのか。

 何度考えても答えは出なかった。海野ほどの人物なら普通に絵を描いて出してもなんら問題はなかったはずだ。



 師匠とアトリエで絵を描き続ける毎日。

 いつものように師匠の描いた絵の後片付けをしていると、突然花子さんがやってきた。


「岸辺さん岸辺さん、健司さんが貴方に会いたいと言っております」


 健司さん?誰だっけ?と少し考えると海野の下の名前がそうだったと思い出した。


「海野が?今更なんのようだ?」


「通してもいいかしら?」

 花子さんがそう尋ねるので、自分は「はい、お願いします」と返事をした。


 しばらくすると、海野がバツの悪そうな顔でやってきた。


「久しぶりだね」


「ああ……そうだな……」


 なんとなく関わり方が分からなくて気まずい。海野も同じようだった。


「今日は突然どうしたんだ」


「ああ、ちょっと久しぶりに会いたくてさ……」


「そうか……」


「ねぇ、高校行っていないんだって?」


「ああ、そうだよ。俺はここで働くつもりだ」


「そっか……」


「海野はどうなんだ?高校にいっているのか?」


「うん、まぁ通っているよ」


「絵は、描いているのか?」


「まだ描いてるよ。この前、2ちゃんねるってところで自分の絵を載せたらすっごく反響がよくてさ」


「2ちゃんねる?なんだそれは?」


「ああ、世界中のみんなが見ることのできるインターネットの掲示板なんだよ。最近とても盛り上がっているんだ」


 インターネット?世界中のみんな?何を言っているのかよく分からない。


「えっと、それは何か権威がある物なのか?」


「……権威はないけど、でもみんな盛り上がっているんだよ」


「そんなところに絵を描いてなんの意味があるんだ?」


「意味は……ないけど、でも……いや、なんでもない」

 海野は何かをいいたそうだったか、ゴニョゴニョと言葉をにごした。


「ふーん、まぁそこでどんな絵を描いたんだ?」


「ああ、ちょっと待ってね」

 そう言って海野は携帯を取り出した。そして何やら操作してから、その画面を見せつける。

 そこにあったのはまるでアニメに出てくるようなヘンテコで妙な格好をした女の子の画像だった。


「これが海野が描いた絵?」


「うん、そうだよ」



「お前、ちゃんとした絵を書くつもりはないのか?」


「……ちゃんとした絵って何?」


「例えば古山信彦師匠のような綺麗で壮大な絵のことだよ」


「……そんなの古臭いだけだよ」


「今、なんて言った?」


「古臭い絵って言ったんだよ!こんな古臭い絵に縛られてさ!バカみたいじゃないか!」


「海野!言って良いことと悪いことがあるだろうが!」


「岸辺君は本当にこれでいいの!?」


「なんの!」


「そう!そのまま、古山信彦と一緒に死んでしまえば!?」


「テメェ!」

 そう拳を振り上げたが、なんとなく殴る気にはなれなかった。ここが師匠のアトリエというのも関係しているのかもしれない。


「……ごめん。こんなことをいいたかった訳じゃないんだ」


「じゃあ、なんのようだよ」


「……実は今度結婚するんだ。もちろん高校卒業してからなんだけど」


「は?」


「岸辺君には言っておこうと思って」


「相手は誰なんだ?」


「岸辺君は知らない人。高校でコンピュータ部に入ってさ、そこで知り合ったんだ」


「そうか……」


「……岸辺君には結婚式に出て欲しいからさ。準備ができたら誘おうと思って、携帯は持ってる?」


「いや、持っていない」


「そう、じゃあ携帯持ったら教えて。僕の番号これだから」

 そう言って海野は紙切れを渡す。そこには電話番号と思しきものが書かれていた。


「あ、おう……」


「じゃあ、それだけ。じゃあね」


「おう」


 そう返事すると、海野はどこかに帰っていった。

 そうか、あの海野が結婚。なんだか頭がぐらつくような感覚がした。

 時間の流れから自分だけが取り残されているような。


「……画材を片付けるか」


 そう独り言を呟いて、アトリエの片付けをする。



 ◇



 そして年月が経って、俺は二十歳の誕生日を迎えた。

 その日、初めて師匠から酒を振る舞われた。そしてついに正式にこのアトリエで雇われることになったのだ。これで名実ともに古山信彦の弟子となる。給料も出るようになった。

 そして自分はという一人称を捨てた。それでは格好がつかない、だからを使うようになった。これだけで風格が出るのだ。

 初めての給料で携帯電話というものを購入した。触ってみるとなるほど、便利だ。

 しかもインターネットというものにもつながることができるらしい。よく分からないがきっと良いものなのだろう。

 そして海野との約束通り、海野に連絡先を教えた。海野は「遅いよ」と笑っていた。そうなのだろうか。確かにそうなのかもしれない。

 しばらくして、海野が本当に結婚した。どうやら私を待っていたらしい。申し訳がないことをした。

 もちろん結婚式に私も参加した。海野は本当に幸せそうな顔をしていた。その結婚式では二、三回お祝いの言葉を伝えただけで終わった。そこで分かったのだが海野はもう今は絵を描いていないらしい。

 もうどうでも良い。私が子供の頃に憧れた海野はもういないのだ。


 彼は勝手に幸せになったのだ。



 ◇



 そして、幾年の時間が経過して携帯電話がガラケーと呼ばれる時代になった。時代の流れに合わせて私も携帯電話を変えてスマホというものにした。

 昔は意味が分からなかったインターネットが今では少し使いこなせるようになった。そういうのが全くダメな師匠に代わって自分が代わりに手続きする事もある。


 私はこのアトリエの従業員として、そして師匠の弟子としてずっと働いていた。辛くはなかった。むしろ毎日が楽しかった。ずっとずっとこの時が続けばいいのに。


 そんなある日、このスマホに師匠が倒れたという連絡が花子さんから届いた。

 慌てて師匠のアトリエに向かう。心配する気持ちで作業場の扉を開くと、師匠はなんともない様子で絵を描いていた。


「……倒れたんじゃないんですか?」


「あれは、アイツの勝手な勘違いだ。ワシはちょっと寝ただけで大袈裟に騒ぎよって」


「寝ただけって……」


「岸辺 誠。こっちにこい」


「はい」


「お前、なんのために絵を描いている?」


「え、理由ですか?そんなことは決まっていますよ。師匠に少しでも近づきたくて」

 

「……そうか。お前はそういう理由で絵を描くのか」


「はい、そうです」


「……チョコレートを食べたことがあるか?」


「え?チョコレート?」

 全く予想外の質問に声が裏返る。


「チョコレートはな。美味しいだろう」


「ええ、そうですね」


「ワシが絵を描き始めた理由もそうだった。岸辺、聞いてくれんか?」


「ええもちろんですとも」


「そうか。わしはお前のような弟子がいて幸せもんだな……」


「……」


「……ワシが生まれた頃は戦争のせいで大変だった。食べるものが何もない。

 母親が直接農家の人に会って着物をどうにかして米をもらっていたがそれも次第に限界がきた。

 特にうちは兄弟が多かった。そしてみんな育ち盛りの子供だった。そんなんだからいくら飯があっても足りたりはせん。

 そんな状態だ、上の兄達は食べるためならなんでもやった。窃盗なんて当たり前、人には言えない犯罪に手を出したこともあるらしい。母はそれをずっと見てみぬふりをしていた。ワシはその頃体が小さく何もできんなんだ。ただ守られるだけの存在だったんだ

 ある日、母親が殺された。犯人は分からん。ただ兄達が自分の所為だと嘆いていたのを覚えている。おそらく何かの報復だったのだろう」


 そう語る師匠はずっとどこか遠いところを眺めていた。まるで私のことを認識していないような。


「…………」

「師匠?大丈夫ですか?」


「ああ……すまん……それでな、母が死んでからはもっと大変だった。

 兄達は飯を盗むことでしか手に入れれん。毎日傷だらけで帰ってきていた。帰って来れずに死んだ兄もいる。親のいない子供には厳しい時代だった。

 自分も手伝うと言ったが、兄達にきつく止められた。これは俺の仕事だというのだ。

 だからワシはずっと家で怯えるしかなかったのだ。気がついたら自分は絵を描くようになっていた。しばらくすると綺麗な絵を描けるようになった。兄達がそんなものがなんの役に経つと笑ったこともある。ワシ自身もそう思った。

 だがな、米兵さんがな、ワシの絵に興味を持ったのだ。ワシの絵とチョコレートを交換してくれた。

 あのチョコレートの味はもう絶対に忘れられん。とにかく甘くて……とにかく幸せな味だったな………だからワシはもっと絵を描くようになった……チョコレートが欲しくて欲しくてたまらんかったのだ……そう、あまぁいチョコレートがな……………………」


「師匠?」


「………………」


師匠が再び虚空を見つめ出す。


「師匠!!しっかりしてください!師匠!!!」

大きな声で師匠を呼ぶ。そんなまさか。師匠が。


「お兄ちゃん……僕の絵がチョコレートになったんだよ……僕の絵は無駄なんかじゃないんだよ……お兄ちゃん……だからもう、無理しなくてもいいんだよ………お兄ちゃん……」


 そう言うと師匠は倒れた。


 私は直ぐにポケットからスマホを取り出して病院に連絡をして、救急車をよんだ。

 医者から師匠はそのまま入院することになると言われた。

 そして、余命は殆どないだろうということも。




 次の日、見舞いに行くと花子さんが先に来ていた。


「あら岸辺さん、こんにちわ」

 こんな時だというのに花子さんはいつもと変わらぬ挨拶をした。


「花子さん、こんにちは。師匠の様子はどうですか?」

 そう尋ねると花子さんは黙って首を左右に振った。


「そうですか……」


「今までずっと働いていましたもの。ようやく休んで私は安心していますわ」


「え……」


「見てください、この安らかな顔。こんな顔見たのはいつ以来でしょうか?」


「花子さん……」


「あなた……覚えているかしらこの絵……」


 そう言って花子さんは懐から古びた紙切れを取り出し眠っている師匠の近くに置いた。


「それは……?」


「結婚するときにプレゼントされた絵よ。もう殆ど色褪せてどんな絵なのか分からないけども」

 ……確かに自分の目からはただの古びた紙切れのように見えた。うっすらと線は見えるが、それが何を成していたのかもう分からない。


「ずっと綺麗なままで残っていればよかったのにね……」


「花子さん……」


「……岸辺さん、申し訳ないのだけど、しばらく二人きりにしてくれるかしら?」


「ええ、もちろんです」


「そう、ありがとう」

 そして私はその病室から抜け出した。






 後日、師匠と花子さんは死んだ。

 花子さんは師匠を傍で見守るように死んでいたらしい。

 ……不謹慎かもしれないが、とても美しいと思ってしまった。きっと天国でも二人は仲良く暮らしているのだろう。

 私は、一人ぼっちになったアトリエで涙していた。



 師匠の葬儀は師匠の息子夫婦が取りまとめることになった。



 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 目の前のキャンバスにはチョコレートの絵ができていた。

 師匠を死を偲ぶのならきっとこの絵が良いのだろう。

 題名はチョコレート。師匠の原点だ。


 私はひとりぼっちになったアトリエ。たった一人でコーヒーを飲み込む。

 とてもとても甘い味がした。


 アトリエに残された数々の数々の作品を眺める。ああ、そのどれにも師匠との思い出が残っている。

 視界がドンドン滲んで行くのがわかる。今更ながら涙が溢れて来たようだ。


「師匠……なんで死んでしまうのですか……私は一人でどうしたら良いのですか……」

 そんなことをいっても返事をしてくれる人は誰もいなかった。ひとりぼっちの恐怖が部屋を包み込む。


 突然、作業場の扉が開かれた。


「やっぱりここにいたのか岸辺」


 そこにいたのは海野だった。


「なにしに来たんだ?」


「なんで、葬式に来なかったんだ?」


「ああ……?なんでなんだろうな……?きっと、絵を描きたかったんだ……」


「岸辺今からでも間に合う、後悔する前に行け」

 海野らしかぬ力強い言葉だった。有無を言わせぬその迫力に、なぜだか師匠と花子さんの面影を見た気がした。


「……分かった」

 そう返事をすると、あんなに行くのが億劫だった葬式にいけるような気がした。

私が部屋を出ようとするが、海野はここを動く気がしない。


「海野はどうするんだ?」


「僕はここやるべきことがあるんだ。おじいちゃんの葬式には行けない」


「おじいちゃん……?」


「え?知らなかったの?古山信彦は僕のおじいちゃんなんだよ?」


「でも苗字が違うだろ」


「へ? 古山 信彦ってただのペンネームだよ。本名は海野 源蔵うみの げんぞうって言うんだ。本当に僕のおじいちゃんなんだよ?」


「は?はは……そうだったのか……だから……はははははは、あははははははははははははは!」


「どうしたんだ岸辺」


「いや、私は本当に何も知らなかったんだなってな。どこか馬鹿らしくなっただけだ。あははは」


「岸辺……」


「よし、お前のおじいちゃんの葬式に俺が代わりにいってやるよ!!」


「……おじいちゃんによろしくね」




 葬式は滑らかに行われた。不思議と涙は流れなかった。ただ納得していただけだった。灰になった二人を見ても、それがあの二人だなんて全く分からなかった。


 どうしても気になったのが遺族の態度。思い出すだけで気分が悪くなる。なんで師匠が死んだと言うのに遺産の話しかしないのだ?なんで悲しまずに金の話だけができる?ハッキリいって理解できなかった。

 彼らと食事を共にするなんて考えられず、師匠と花子さんに祈りを捧げて私は葬儀場から離れた。


 家に帰ると、目をひんむくようなニュースが飛び込んできた。

 古山 信彦のアトリエに火災が発生したというのだ。


 慌ててアトリエに向かう。そこにあったのは、ニュースが嘘ではないという証拠だった。

 師匠と過ごした練磨の日々。優しい花子さんとの思い出。その全てが燃えカスに変わっていた。


「そんな……」


 考えがまとまらない。何もなくなってしまった。自分が持っているものは何もなくなってしまった。

 私に残ったものは……なんだ……?



 ◇



 それからというもの私は抜け殻のように絵を描いていた。

 古山信彦というブランドを失ってしまった私の絵をみる人は少ない。

 師匠がいた頃とは比べ物にならないほど私の絵は売れなくなってしまっていた。

 私自身も絵を描く活力が失われていた。当初は物珍しさから買う人や、事情を知っている師匠のお得意様が私の絵を買ってくれたが、それも次第に少なくなってしまった。

 私はなんのために生きているのだろう。私も師匠のアトリエと一緒に燃えて仕舞えばよかったのだ。

 死んでしまおうかなと考えたこともある。しかし、勇気のない私にはそれをすることができない。

 ならば生きることしかできないのである。

 生きていれば腹が減る。描いた絵を前からは想像もつかない安値で売って、毎日の食費を稼ぐ日々。

 希望が見いだせない毎日。画家としてのプライドも全て金に変わった。

 心にぽっかりと開いた穴を埋めるようにインターネットで古山信彦の名前で検索する。調べれば調べるほど偉大な人物だったと言うことがわかる。自分と比べて胸が痛くなるばかりだ。

 そして蘇る、幸せな二人の笑顔。ハッキリ言って挫けそうだった。

 そんな中気になるニュースを見つけた。『焼失したはずの古山信彦の作品がNFTアートとして販売されている。一体なぜ?誰が?』という見出しだった。


 NFTアート?なんだそれは。さらに詳しく調べてみる。

 NFTというのはどうやらデジタルでも個人の所有物として扱えるようになるというものらしい。つまり、師匠の絵がインターネット上でまるでのように取引されているというのだ。

 事実確認しようとNFTマーケットで師匠の名前で検索をする。すると、あのアトリエにあった絵が3D作品としてずらりと並んでいた。中には未発表のものまで存在している。しかもその絵はどれも本物だ。私はずっと一緒に描いていたのだから見間違える訳がない。

 何が起きているのかさっぱり分からない。そのなかで一つだけ異常な高値で売られている絵があった。


「なんでここに……」


 私が描いたチョコレートの絵だった。しかもその絵だけは古山 信彦ではなく、古山 信彦の弟子と書かれていた。間違いない、これは私の絵だ。でもそんなまさか。

 だってこの絵は、アトリエが燃える前日に完成したもののハズだ……


 混乱する頭で考える。

 どう考えても犯人は一人しかいなかった。


 海野 健司うみの けんじお前は何をした?



 ◇



 師匠のアトリエの跡地で私はキャンバスに絵を描く。屋根がなければ壁もない。

 青空の下でただ一人絵を描いていた。



「やぁ岸辺君……君はいつも連絡するのが遅過ぎないかい?」

 そこに海野がやってきた。私が呼びつけたのだ。

 海野をジロリと睨みつけると、私はポケットからスマホを取り出し、例のNFTアートになった私のチョコレートのイラストを見せつける。


「海野これはお前がやったんだな?」


「……そうだよ」


「じゃあ___」


「このアトリエを燃やしたのも僕だ」


「なぜ?」

 ここは怒るべき場面なのだろう。しかし不思議と怒りが湧いて来なかった。私は私がびっくりするほど冷静だった。


「NFTアートっていうのはね、唯一性があるから価値があるんだよ」


「何を言っているんだ?」


「だからさ、現物があったらNFTアートよりも現物の方が価値をもってしまうんだよ。だってそうだろ?本物なんだから」


「あぁ?」


「だから燃やした」


「海野」


「なんだい岸辺君」


 私は力限り手のひらを握り、カチカチに固まった拳を海野の顔面にぶつけた。

 その勢いでアトリエの燃えカスの上を転げ回る海野の姿、しばらくすると膝をガクガクとさせながら海野が立ち上がる。


「満足した?」

 海野が気にしていないというふうな口調で話しかける。むしろこれぐらいは当然だと言わんばかりの態度だった。


「……まぁな」


「そうよかった」

 何かに安堵した海野はそう呟いた。


「本当のワケを話せ。さもないともう一発」


「おばあちゃんの為だ」

「どういうことだ?」


「おばあちゃんが言っていたんだ。永遠に美しいままに残す方法がないかなと。だから、僕はデジタル化すべきだと思っていたんだ。デジタルなら劣化することもない、一生色褪せないままでいられるんだ」

 花子さんの持っていた色褪せた絵を思い出す。花子さんの最後のぼやき。色褪せた絵を大切そうに持っていた花子さんはとても悲しい顔をしていた。


「……」


「だけど、おじいちゃんはデジタル化なんて許すはずがない。何度交渉してもダメだと言われた」


「お前そんなことをしていたのか……」


「まぁね。腐っても僕のおじいちゃんだから」


「意外かもしれないけど、おじいちゃんはお金のために絵を描く人だったんだ。絵は家族が、友人が、身の回りのみんなが飢えないようにするための手段」


「チョコレートか」


「ああ、知っているんだね。そう、おじいちゃんはチョコレートの為に、ご飯の為に絵を描いていたんだ。それは歳をとっても変わらない。だからこそデジタル化に反対していた。古山 信彦の作品は蒐集品しゅうしゅうひんとしての価値が主だ。だから容易にコピーできるデジタル化された作品になんの需要も見いだせなかった。それどころか古山 信彦のブランドが下がってしまう可能性がある。おじいちゃんはそれを知っていたからこそ反対していたんだろう」


「……」


 確かにそうだ。海野の言っていることは悉く《ことごとく》真実だった。


「……岸辺君、おじいちゃんの遺書を読んでいないだろ?」


「遺書?そんなものがあったのか?」


「ああやっぱり、そうだよね」


「なんだよ、何が書かれていたんだよ」


「私が古山信彦として描いた作品は、弟子の岸辺 誠に全て寄贈きぞうします」


「は?」


「おじいちゃんは、君に全てをあげようとしていたんだ」


「君が受け取るべきなんだ。おじいちゃんはずっとそう言っていた。ワシのあとを任せられるのはあの素晴らしき弟子しかいないって」


「師匠はそんなことを……」


「……僕もそう思っていた。おじいちゃんを継げるのは君しかいないと。だけど、アイツらはその思いを踏みにじったんだ」


「アイツら?」


「僕の親戚たちだよ。アイツらはおじいちゃんの作品の良さを一つも分かってはいない。アイツらはずっとお金しか見ていない、アイツらは醜くずっと争い続けていた。だから君に作品が譲られるなんて我慢なんてできなかったんだろうね。そしてアイツらは師匠の魂のこもった遺書をなかったことにしてしまったんだ」


「……」


「……許される訳ないよね?残っている古山信彦の作品が全て燃えてしまったと知った時のアイツらの顔見たらさ、すっごく笑えたよ」

 そう言い捨てる海野の顔には笑みが残っていた。

 

「だからって燃やすことは無いだろ……」


「……それは僕もすごく悩んだ。でもやっぱりこうするしかかったんだよ。そうでもしないとあの素晴らしい作品がアイツらに奪われてしまうんだ」


「そうか、それがお前の思いか」


「まぁね」


「なぁ今、NFTになった師匠の作品は誰が持っていることになっているんだ?」


「購入されたものは購入者のものに、それ以外のものは一般法人団体『古山信彦のアトリエ』が持っていることになっているよ」


「法人?」


「えっと、要は古山信彦のアトリエで働いていた人皆のものってことさ。アトリエの社員はおじいちゃんとおばあちゃん、そして君と僕だけだ。だから、おじいちゃんの作品は僕と君が持っているということになるね」


「お前、アトリエで働いていたのか?」


「ほぼ名義だけだけどね、たまにおじいちゃんの絵を売るのを手伝っていたりしてたんだよ」


 思い返せば師匠とはいつも絵の話ばあかりでプライベートなことは何も聞いたことがなかった。長い時間何をしてたんだろうとも思う。だけど、それほどまで師匠と絵を描くのは楽しかった。それでも__


「師匠の馬鹿野郎、ちょっとぐらい教えてくれてもいいじゃねぇか……」


「……僕のおばあちゃんは作品のデジタル化を望んでいた。僕のおじいちゃんはご飯が食べれなくなることを恐れていた。そして僕はおじいちゃんの作品がお金にしか興味のない親戚の手に渡るのが嫌だった。だから……」


 

「……辛かったのか?」


「うん……悩んだとっても悩んだよ。今もこれが正しかったのか悩み続けている」


「相談してくれたってよかったんじゃないか?」


「……君、こういうNFTとかネットとか苦手だろう?」


「言い返す言葉がねぇ」

 そういうと、何かが堪えられなかったのか海野が笑い出す。私もそれに釣られて笑う。

 青空の下で僕たちはいつかの時のように無邪気に笑った。


「あ、岸辺君、今さっき君の描いた作品が売れたみたいだよ」


「は!?あのやけに高いやつが!?」


「だからさ、チョコレート食べにいかないかい?すっごく美味しいヤツ」


「ああ、それはいいな」



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 私は今、古山信彦のアトリエにいる。そこでゆっくりと筆を握ると、雄大な音楽が流れ始めた。目を閉じて全身全霊集中する。音楽のイントロが終わると、目をカッと見開く。

 そして全身を使って筆を走らせた。はは、師匠の言った通りだ。バカみたいに体を動かすのは絵を描くのには向いてない。こんな書き方は体が疲れるわ、繊細タッチはできないわでまともな作品ができるわけがない。

 これは人に魅せるための描き方だ。だがこれでいいのだ。これは私の動きも含めて完成する作品なのだ。

 頭上に四角いメッセージが浮かび上がった。投げ銭の通知だ。それがきっかけで次々と投げ銭が届く。

私が絵を描く所を見て観客のみんながお金をくれるのだ。この二代目”古山 信彦”の私に。

 音楽がクライマックスになる。そろそろ終わらせなければ。自分の描いた大きな龍に目をちょこんと描いて絵を完成させる。乱れ飛ぶ大量の投げ銭。

 私はゆっくりと大きなお辞儀をした。


そして世界が真っ暗になる。「配信は終了しました」という無機質な機械メッセージが目の前に浮かび上がった。


「お疲れーー」

 海野がそう話しかけるので、私はかぶっていたVRゴーグルを外す。


「おう海野もお疲れ」


「どうだいVR空間で絵を描くのは慣れたかい?焼失した古山 信彦のアトリエの再現は結構頑張っていると思うんだけど」


「まだちょっと違和感があるが、結構慣れてきた。それにしても物凄い数の投げ銭が届いたな。びっくりしてちょっと失敗する所だった」


「それだけ君の作り出した世界が素晴らしいってことだよ。よっ二代目!」


「まだその呼び名になれないな」


 私たちは師匠のNFTアートで手に入れた資金を元手に新しい事業を始めた。デジタル世界での画家だ。僕たちはバーチャル空間上で次々に絵画を作り出す。そしてそれをNFTアートとして世界に届けるのだ。

それが二代目を襲名した私のアトリエ。古山信彦のアトリエだ。


 前例の無い取り組みだった。手探りの毎日だった。最初はドンドン資金が減っていき、不安になるように毎日が続いた。それでも海野を信じてみることにした。


 続けていくと次第にいろんな人に評価された。先代のお得意様も支援してくれた。色々な人との繋がりに支えられて、今ではもう……チョコレートに困ることはない。


「なぁ、海野……ありがとうな!」


「なんだよ急に、照れるじゃないか」


「ここまで成功したのは海野がいたからだ」


「はは!まぁそうかもね」


「やっぱり海野が正しかった。思い返せば海野、お前はいつも新しい技術に触り続けていた、最先端を追いかけ続けていたんだよな。そして人との繋がりも大切にしていた、なんだって高校生で結婚を決めるぐらいだしな」


「なんか岸辺君酔ってる?」


「いや、改めて海野はすごいヤツだって思っただけだ。この世界で一番大事なことをお前はずっと前から知っていたんだな」


「……僕だけの力じゃだめだった。君という真の天才がいたからここまで成功したんだよ」


「私が天才?」


「……僕が白紙の絵画でコンクールに出そうとしていた時を覚えているかい?」


「ああ、まぁ……」


「正直に言うとね、あの時は君が怖かったんだ」


「怖かった?」


「だってさ、君の絵を見返してみなよ。物凄い勢いで上手になっていったじゃないか。僕は昔おじいちゃんに教えてもらっただけ。だけど君は我流でドンドンうまくなってく。おじいちゃんが師匠になってからはそれがさらに加速する。バケモノかと思ったよ。それなのに君にとって、僕はライバルだ。プレッシャーで押しつぶされそうだった。だから僕はいつの間にか筆を握ることが怖くなっていったんだ。だって絵を描いたら君に失望されてしまうから。だから絵を書かないことを選んだ。今思い返してもどうかしているよ」


「……そうだったのか」


「君はずっとずっと昔から僕を超えていたんだ。いや、僕だけじゃない。世界中のあらゆる人を超えていったんだ。そしてこれからも超えていくだろうね」


「海野?」


「僕はそんな君の隣に立ちたかったんだ。君の才能は僕が他の誰よりも知っている。だから君がおじいちゃんの後を追いかけている時は焦った。だって、君の才能はおじいちゃん以上なんだから。だからずっとおじいちゃん真似事をしている姿が不憫に見えていた。どうにかして別の道を見つけてあげたかった。だからおじいちゃんの絵を古臭いなんて言ってしまったこともある」


「……結婚報告の時か」


「そう、その時だね。でも、今はそれが間違いだっていうのがわかる。君がおじいちゃんから受け継いだその圧倒的な実力があってこそ、今の成功があるんだからね」


「いや、海野の新しい技術に怯えずに触って、それを生かすアイディア力のおかげだな。私だけでは絶対に上手くいかなかった」


「いや、二代目の実力のおかげだよ。僕だけでは絶対に上手くいくわけないよ」


 それから互いを褒めるような口論がずっと続くので、私たちはバカらしくなって笑い転げた。

 ひとしきり笑い終わると、スマホからアラームが鳴り響く。もうそんな時間か。



「そろそろ行こうか」

「ああそうだな」


 私たちは甘ったるいコーヒーを飲み干す。

 今日は師匠と花子さんの命日だ。

 びっくりするほど美味いチョコレートを持って、師匠たちが眠るお墓に向かうのであった。




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古山信彦のアトリエと甘いチョコレート ラトヒル @rathill01

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