第7話 白猫と蜘蛛男

 ラドワの案内で書庫や医務室、取調室その他諸々の部屋を見て回る。仮眠室は2段ベッドがたくさん設置されており、安眠を確保するべく厚手のカーテンで仕切られていた。羽毛の枕や上掛けのふわふわ具合といったら、執務の敵である。危ないから女性のキアラは使うなとラドワに忠告された。


 廊下に出ると、庁舎の東の方角から、緩慢な鐘の音が響いた。大きな響きの波。ぼおーん、ぼおーん、と重たげに鐘を突く。


「何ですか?」


 キアラは窓辺に腕をかける。窓辺からは庁舎の広い中庭が広々と眺められた。時折、あの中庭で小隊員が訓練するそうだ。そのあとはしばらく、中庭で豊かに育っていた草花が無残な形で残される。


「昼休みの鐘だ。食堂に行くぞ」


 王都警備隊の敷地には鐘塔しょうとうが建っている。始業と昼休憩、午後の業務開始と終業を知らせるためで、王都の有事にも打たれる。後者を理由とした鳴鐘めいしょうは滅多にない。喜ばしいことだ。


「うちの食堂の味は期待できるぞ。料理長が王室の厨房を預かっていた元料理番だからな。わたしがここに入り立ての頃はそりゃあ酷かった。栄養補給できたら何でも良いという風潮で、家畜の餌みたいな料理が出ていたからな」

「聞いたことがあります。野菜もお肉も全部混ぜてお皿に盛っていたとか」


 すべてを一皿にまとめるべく、酢漬けした豚の臓物スープと牛乳を吸わせた巨大な蜂蜜入りパンに、あぶり肉と生野菜を挟むという闇鍋的な一品料理は現在でも語り草だ。味を想像するだけで気持ち悪い。間違った方向に手が込んでいる。


「あまりにまずくて皆、外で食べていた。だが手間だろう? 我慢して家畜の餌を食べ続けていた勇者がいてな、そいつが食中毒を起こしたあと一致団結して軍務大臣を人質に取って食事の改善を訴えたんだ。お前が美味い料理を食べられるのは、そいつの犠牲があってこそだ」

「れ、歴史ですね」

「あの頃は我々も若かったからな。終わり良ければすべて良しだ」


 現場人の実力を目の当たりにした宮廷人はさぞかし、震え上がったろう。ラドワみたいな大巨漢が立ちはだかったら、なおさら。


 窓を通ってそよぎ始めた風が気持ち良い。 廊下の窓は換気を兼ねて、勤務時間中は開放されている。内開き窓は壁に突き立てられた留め棒で固定されており、強風で閉められる心配もない。


 乱れかけた長い銀髪を押さえ、キアラは常に2歩前をゆくラドワとこれ以上離れては大変と小さく走った。

 床を蹴ったキアラの視界の片隅に、妙な影が映った。


「?」


 中途半端な体勢で足を止め、キアラは再び窓を見る。見間違いかと思った上での軽い確認……のつもりだった。


「……!?」


 しっかり見てしまった光景に、喉の奥から悲鳴が漏れた。


「雪ん子?」

「ま、ま、……ま!」


 動揺が舌に絡みついてまともに動かせない。

 窓の、……窓のさんを、人の両手が掴んでいる。指はほっそりしているものの、骨格の構造から男だ。色白の男。


 ここは2階だ。しかも王都警備隊の庁舎は天井が高く、1階部分が2階建ての民家一戸分に相当する。高層階から落とされたでもない限り、ただでさえ高い2階の窓枠に手をかけられるはずがない。


「よっ……と。ん?」


 彼女の常識をくつがえし、2本の腕のみで全体重を支えた男が、軽い掛け声とともに窓枠へと身を乗り出した。廊下側に上半身をねじ込み、身体を横にずらして足を一本ずつ滑り入れる。


 身軽に2階の廊下へと舞い込んだ高身長の青年は隊服のシワを整え、次いでようやく気づいたと言わんばかりに目の前のキアラを視認して瞳を丸くした。


「あ。君はさっきの」


 汗と泥まみれの環境には似つかわしくない、洗練された物腰、垢抜けた美貌。しなやかな鎖のむち彷彿ほうふつとさせる、結った長髪。


「だ、だいに!?」

「また会ったね。白猫ちゃん」


 泡を食う彼女に、青年は甘くかぐわしい笑みをふわりと咲かせた。


「またお前か。リュジニャン。お前も飽きないな」


 窓を凝視したまま凍りつくキアラを不審に思い、引き返してきたラドワは事を悟ったらしい。肩をすくめ、呆れ返っている。


「偶然ですよ、ラドワさん。見回りついでに壁登りをしていたら、そこに白猫ちゃんがいたってだけです」


 さらっと、本当にさらっとリュジニャンは言ってのけた。キアラにとってはだいぶ問い詰めたいことを。いとも容易く、一言で。


 壁登りだって? 平屋の民家4戸分に当たる地点の窓まで、壁を伝って? 一般的な一戸建ての高さは平均して3メートルとちょっとと言われている。その4倍だから、単純に考えても結構な高所だ。しかも庁舎の壁は内も外も滑らかに削られており、登る際に足場になりそうなものはない。とすれば、物凄い腕力と脚力、驚異的な技能が必須となる。


 リュジニャンにそんな要素は皆無だ。ラドワならいざ知らず、彼は同性でも細身の部類だし、とてもしなやかな身体つきだ。鍛えていても、とうてい両腕のみの宙ぶらりんに耐えられそうにない。


「どうした? 雪ん子。驚いたのか? ……気にするな。よくあることだ」

「窓から人が這い出てくるのが!?」


 高所の窓を、人が外から乗り上がってくるなど、いったい誰が予測できよう。キアラの想像力が乏しいのだろうか。

 こめかみを押さえてうめくキアラをリュジニャンは面白そうに眺め、冷笑した。


「このくらい、普通。ですよねぇ?」

「秘書の採用枠だからな。科も異なっていたから、知らないのも仕方がない」

「ああ、そうでしたね」


 キアラの頭を軽々と飛び越えて、長身の男たちが恐ろしい会話を交わしている。戦闘要員として育てられていないキアラが異常で、士官学校の一般的な専攻科である兵科出身の人間には、高所の窓に飛びかかる行為は常識の範囲内なのか。後頭部がじくじく痛み始める。


「士官学校の屋上の柵に乗って追い駆けっこなんて日常茶飯事でしたよねぇ」

「教官も怒りはしたが罰則を下さんかっただろう? わたしの時代はそうだったぞ」

「あ、僕もですよ。教官も学生だった頃にやってたんでしょうねぇ。あれ、暗黙の通過儀礼でしょ」

「女子もやるものだと思っていたが、例外がいるんだな。雪ん子があの細い柵に乗れるとは到底思えんが」


 そろそろ彼らの話題を後にしたい。ついていけなくなった。

 大丈夫だろうか、キアラは今後32年、この職場で上手く渡り歩けるだろうか。着任初日から不安になってきた。

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