第4話 白ウサギ
「そうか。白ウサギか」
撃沈。
一瞬にして、こんな奴の下について良いのか悩みたくなった。どこの世界に部下をウサギ呼ばわりする上司がいるというのか。ここにいた。
「……クレイトンです」
「分かった分かった。白ウサギだろ」
再戦を試みるも、あえなく一蹴。
「レンナート・ハウザーだ。まあ、お前も座れや」
執務室には出入り口の向かいの壁に隊長用の執務机と秘書用の事務机が設置されており、真ん中に来客用テーブル、その両側に長いソファが置かれている。執務椅子に座ったまま、隊長はキアラにラドワの向かいのソファを勧めた。お言葉に甘えて腰を下ろす。とてもふかふかで寝心地も良さそうだ。
キアラはレンナートの執務机横の、秘書の席を盗み見る。隊長の席と同じ、太い肘掛けと、綿詰めの紅いクッションと背もたれがついた椅子。表面積の大きな木製の両袖机。これが秘書の席なのだ。つるつるした机上には膨大な量の書類が積まれていた。そこに目を奪われてしまい、キアラはめまいを覚えた。初仕事が怖い。
秘書試験の面接官に言われたのは、前任の秘書が休暇を取れるだけ取ったあと、すべてを丸投げしていきなり辞めたので、隊長1人ではさばききれない書類がわらわら溜まっているということだ。覚悟していたものの、実態を目の当たりにして遠い目をしたくなる。
「しっかしなぁ、こんな小せえ娘っ子が来るとはな」
「わたしも驚きました。実戦力は
「ちっせぇのは脳に栄養がいってるからか」
その『小せえ娘っ子』本人を目前にして言いたい放題か。
「あの」
「おう。いたのか」
『座れ』と勧めたのはどの口だ。
「私はここでどのような仕事を……」
キアラに与えられた役職は秘書だ。王都警備隊の秘書として、事務仕事を中心にするとは聞いている。『総合雑務』という名の総務的な業務である。
あー、と隊長が面倒臭そうに頭を掻く。
「必要があればこちらから指示する。俺の秘書なんぞ基本、書類事務とか全隊の雑用と変わんねぇから、頑張れ。書類整理は士官学校の講義でやっただろ」
キアラの専門は、医療分野だ。総務事務的な教育も施されているので支障はないが、やはりか、とほんの少し落胆する。
しかし、本来鑑識や解剖などを行う第三小隊の席はすべて埋まってしまっている。キアラに残されていたのは王都警備隊隊長の隣席のみ。事務仕事が中心になるのは仕方がない。
「とりあえず今日は挨拶回りだな。ラドワ、案内を頼む」
「承知」
ラドワは立ち上がり、形式張った一礼をする。
ラドワはキアラの肩にぽんと手を置き、退室を促す。ハッとキアラは一礼し、隊長に静かに見つめられているのも知らず慌てて廊下へと走り出た。
花崗岩造りの床を歩く。研磨されてピカピカの表面を
前を歩くラドワの足は速い。ゆっくり歩いているのだが、高身長ゆえ脚も長く一歩が大きいのだ。曲がり角があるとその先で見失いそうになる。
キアラは小走りになって彼の横に並び立った。
「前任の秘書の話は聞いたことがあるか?」
キアラは首を横に振った。
「いえ、……私はただ、教授から王都警備隊の秘書の中途採用が募集されているから、受けてみてはと勧められただけですので。ただ、いきなり辞められたと聞きました」
「その通りだ」
ラドワの眉間が寄り、淡い陰を作る。
「有り体に言えば、隊長と反りが合わなかった」
本当に有り体だ。
「前任は隊長が今の地位に就任する以前より秘書を勤めていた古株だ。警備隊のこともくまなく知り尽くしている。その自負があったんだろう。隊長を『若造』呼ばわりして何かと張り合っていた」
警備隊の秘書は、一般の隊員とは別の選ばれ方をする。試験制度がそもそも違うのだ。警備隊員は徹底した倫理観と実技に重きを置かれる一方、秘書は知識と柔軟な対応力が要される。そして秘書は経験を積むごとに価値が上がるため、定年までずっとその隊での勤務を任される。戦闘員として犯行真っ只中の現場に駆り出される心配もない。あらゆる意味での安全が確約されているのだ。
したがってだんだんと顔を大きくしていく秘書が多い。前任秘書が典型で、小隊員らとたびたび衝突していたそうだ。
「隊長を見ただろう? あの人はそんなものに屈する人間ではない。むしろ前任の神経を逆撫でしにかかったんだ。あの頃の執務室は冷戦状態だった」
前任はレンナートを敵視し始め、事あるごと、文句を言うようになった。隊の
「……もともと神経質なお人だったんですか?」
「それもある。今の隊長は割とあっけらかんとした性格だから、余計に悪かったのかもしれん」
ここまで決裂するとはいっそ清々しい。よくもまあ最近までやってこられたものだ。
「我々、小隊長も前任に気を遣って、騙し騙し仕事を続けてもらっていたんだが。限界だったらしい。いきなり今年分の休暇を全部とったあと、別の職を見つけて辞めた」
「うわあ……」
どう反応して良いか分からず、思ったままを声に出すと、自分でも驚くほどどんよりしていた。前任秘書の行動も分からなくはないが、そのしわ寄せがキアラに及んでいるので同情はできない。
「思い上がりほど自分を疲れさせるものはないな。雪ん子よ」
「クレイトンです」
ラドワは遠回しに釘を刺している。この先、決して
幸いキアラは、彼女よりはるかに上背も筋肉もある男たちの集団と対峙できる度胸がない。彼らを軽んじる日は来ないだろう。生存本能に従う。
「初心忘るべからず、ですね」
「うむ」
勤務年数を積み、経験が増えていくと、おのずと態度が大きくなる。物事に慣れて余裕が生まれるのは喜ばしいことだ。しかしそれで自分が有能になった、自分は偉いのだと威張ってしまってはいけない。常に謙虚な自分を思い出し、一歩引いたあたりで振る舞うべきだ。でなければ、ふとしたことで重大なミスを犯してしまいかねない。
「お前の代わりぐらいいくらでもいるからな」
一言が重い。
「……肝に銘じておきます」
「新人に言う話ではなかったな。暗い話題は終わりにしよう」
そうしてくれるとありがたい。
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