第2話 巨体の男
「早いな。もう来ていたのか」
簡潔で、低く通る声。指している人物は、キアラしかいない。
「あ、はっ……はい!」
慌ててキアラは向き直った。あれほど己に釘を刺していたのに。キアラは緊張感丸出しの『気をつけ』をしてしまう。無感情にこちらを見下ろす男の影にビクつく。
後ろへ撫でつけた黒髪。
「よく来た。キアラ・クレイトンだな」
だからといって彼女がたじろぐまでの理由にはならない。
キアラは現場の人間独特の苦み走った面構えでなく、彼のガタイに絶句していた。
「は、はい。まだまだ未熟ですが、これからよろしくお願いします。あの。……レンナート・ハウザー隊長?」
巨大。とにかく巨大だ。それに尽きる。広々とした肩幅、隊服を着ていても一目瞭然の、盛り上がった硬い筋肉。横の限界が来たから、縦に伸びていったのだと言われても納得できるやたらに高い身長。キアラは彼の人影にすっぽり覆われている。彼の体格に合わせた隊服は特注の特注に違いない。規格外すぎる。
歯向かおうものなら間違いなく筋骨隆々の胸板に潰される巨体の男だ。キアラは心持ち後ずさった。
「隊長は勤務で時間を
失礼を承知で、キアラは安堵した。こんな大巨漢と四六時中、机を並べて職務に励めといわれたら、息が詰まって仕方がない。
男の首元に光る何かを発見し、キアラは彼の目から少し視線を外した。
白地のクラヴァットに刺さるピンが映った。花をかたどった
国家バヴァリアの公職に就く人間はそれぞれ、ピン付きのクラヴァットを着用させられる。クラヴァット・ピンには宝石が1粒埋め込まれており、そこからその人の配属と階級が分かる。――――オニキスは実動部隊の第二階級に当たるのだ。
ただし、クラヴァット・ピンは肩書を持つ者のみ所持を許される。ちなみにキアラはピンこそないものの、普通の警備隊員と区別するため紺色のクラヴァットを支給された。折り
「ようこそ王都警備隊へ。わたしは第三小隊長、ギヨーム・ラドワだ」
そう名乗った巨体は、折り畳み式の身分証を提示した。身分証の表面には警備隊の記章が輝いている。
警備隊の身分証は縦開きだ。開いた折り目を中心にして、上部はすべての警備隊員に課す訓戒を、下部は身分証番号と隊員の氏名、階級、偽造防止目的の本人の
「よ、よろしくお願いします! キアラ・クレイトンと申します」
ラドワのサインは豪快だ。大き目で朱色の
警備隊の身分証は初めて見るのでつい食い入ってしまった。ようやくラドワの戸惑い気味な空気を感じ取ったキアラはハッと礼をとる。
「堅苦しい挨拶はここまでにしておこう。緊張する必要はないぞ。今日からお前の職場だ。慣れんと朝起きるのが辛いぞ」
やっとキアラの関心を逃れた身分証を
「行くぞ、雪ん子」
かけられた呼称にキアラは唖然とする。
「ゆ、き……?」
雪ん子とは、バヴァリア国民にはお馴染みの冬の妖精だ。灰色の髪に灰色の瞳、雪の肌を持つ幻想の生物。童話にて数多く登場する。文学者らがどの文献を調べてもその名前を辿ることができず、『雪の子』と名付けられた。それが庶民に広まるにつれ
キアラの髪は灰みの強い銀髪で、肌も抜けるように白い。内に流れる血が透けそうなほど真っ白な
寒そうな出で立ちだろうが、雪ん子だなんて。というかなぜいきなりあだ名を作ったのか。
「私はクレイトンですけど」
「雪ん子の方が呼びやすい」
腑に落ちない理由で一刀両断された。
「私の姓はクレイトンなので、ぜひそちらで呼んでいただけると嬉しいです」
「雪ん子の方がお前の雰囲気に合っている」
聞く耳を持たれない。
「クレイトンです」
「雪ん子だな」
「クレイトン」
「雪ん子の方が柔らかいだろう」
語感の問題ではない。
「…………」
「決まりだな。雪ん子」
らちが明かない。今のところはキアラが敗北を認めた。呼ばれるごとに訂正していけば、次第に相手が折れてくれるだろうと願って。
キアラは自分に構わずどんどん先を進むラドワの大きな後ろ姿を追った。
秘密の園と暗殺者 イオリ @7rinsho6
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