ここがゲームの世界なら
◇
広げたページに差しかかる夕陽はだいぶ翳ろっていた。いまこの広い図書室には、アランサスとリュデ、ヒロイン、そしてアイトーンしかいない。先日、図書室で思いもかけず出逢った弟が快く協力してくれたおかげで、他に利用者の訪れがないのだ。
『しばらくは、放課後でしたら邪魔は入りませんよ』
そう微笑まれてから、かれこれ一週間ほどは経っている。
(メティス……なにをどうしたんだろう……)
王子として――権力者としての格が違い過ぎる。にこやかな弟の柔和な顔を思い出しながら、一方でちらつく底知れなさに蓋をして、アランサスは手元の本のページをめくった。
宵闇が迫るにつれ、図書室には独特の静けさ以上に、息つまる静謐がたれこめはじめていた。日の当たらぬ位置にずらりと重々しくたたずむ書架の列には、早くも夕闇が蹲り出している。だが、それらしい雰囲気の本を取り上げ、目を通してみても、いまだ裏ルートへのヒントの欠片すら得られていなかった。
「収穫はあったか?」
「あったように見える?」
「悪かったよ」
見上げてきたしょぼくれた顔に、労うようにリュデは肩をすくめた。その隣のヒロインのたくましい腕の中には、厚い書籍がうず高く積まれている。
これもどっかで見たな、とおぼろな先日の夢の光景を辿りつつ、アランサスは向かいの椅子を引くふたりを眺めた。あの夢の内では、ドレス姿ではなかったけれど。
「しかし、図書室から裏ルートに繋がるという話以外に、なにか手がかりになりそうなものはないのだろうか?」
尋ねながらヒロインがごきりと太い首を回した。授業終わりにこの図書室に引きこもりだすようになってからずいぶん経つ。その間ずっと根を詰めて手がかりを探そうとしてくれているのだから、肩も凝ろう。
「いやぁ、それがお役に立てず申し訳ないんだけどな? どうも夢の記憶が曖昧で」
「お前いつもそんなんだよな」
リュデは呆れた吐息を柔らかくこぼした。
「でも、ここに来てますます分からなくなってきたんだけどよ。お前のその前世って、結局なんなんだろうな」
「っていうと?」
「正直、ここに入学するまでは、お前の前世の話は半信半疑だったんだよ。この世界がゲームに似てるって部分は特にな。裏庭でヒロイン待ってた時だって、俺はその実、話半分だったんだ。お前の言う通りになったら都合がいいな、ぐらいの欲はあったけどな。でもあれから、ズレがありつつも、ゲームに当てはまる相手ばっかり出てきてるだろ? 災獣も、アイトーンも、あの二人組だって、ゲームに似たキャラがいたっつうじゃねぇか。そうなると、さすがに少し、思ってくるわけだ」
リュデはどこか不満げに、紫の瞳を遠くへそらした。
「この世界は、お前の言ってたゲームの世界なんじゃないか、って」
「……それにしては、本来のゲームと違い過ぎるんじゃないか?」
ぼそりと、それまで黙っていたアイトーンが空色の瞳を本から持ち上げた。それに、アランサスも頷く。
「そうなんだよ。もし本当にゲームの世界だとしたら、もっと色んな設定が、俺の覚えてる乙女ゲーと同じはずだろ? だから逆に、あのゲームがこの世界に似ていたと考える方がしっくりくる――と、最近は思ってる。なんでそうなのかは、全然分かんないけど」
「まあ、座りが悪いのはどっちも同じだが、確かにその方がまだ気分はいいかもな。だってゲームの世界ってことは、物語の世界ってことだろ? 俺たちがもし本当に物語を生きてるんだとしたら、その乙女ゲーは、ヒロインが学院を出たところで終わっちまうらしいじゃねぇか。そいつはずいぶん、あんまりな最後だと思ったんだよ。俺、無事に男に戻ったら、貴族は続けられねぇからさ。ヒロインと魔物狩りの賞金稼ぎでもしようかと画策してんだよな。それ、エンドマークに潰されたくねぇし」
「お前、そんな危険な夢膨らませてたの?」
「お前の嫁、基本俺の相棒にするから、よろしくな」
「あ、そうなっても俺はヒロインと偽装結婚してることに変わりはないんだ? つか、ずいぶん堂々と寝取るなよ。ヒロインはそれでいいのか?」
「まずは東方部で名を挙げてから、西方大陸に渡っては、と話している」
「前向きなうえに具体的だな」
なぜかひどく満足げに答えるヒロインの隣には、勝ち誇ったリュデの顔が見える。そういえば彼らは、根本が戦闘民族思考の同じ穴の狢であった。もうなにも言う気力が起きないな、と、アランサスは危険な野望の抑止を早々に諦めた。
「ま、だから、この世が俺たちの学院卒業で終わられるわけにはいかねぇんだよ」
「それにもし、この世界がゲームの世界なのだとしたら、似ているとはいえずいぶん本来の話とは変わってしまっているのだろう?」
その張本人たるヒロインが、渋みのある声で微笑む。
「そうだとしたら、可笑しいではないか。我らが生きるのが物語であるならば、ここまで変わった物語を、アランサス殿の前世の世界はどう享受しているのだ? いくつもある写本のうちひとつだけが、このように変容したのか? それてもすべての本が、アランサス殿が転生した瞬間から、私たちの生きる物語に書き換わったのか?」
「確かに……そうだよなぁ。乙女ゲーの世界に生まれ変わったんだとしたら、その乙女ゲーは、前世の世界でどういう扱いになってるんだって話だよな」
俺様系のはずの第一王子は、頼りがいを失くした平凡男子。悪役令嬢の方がむしろ俺様何様系であるという重大欠陥。加えて恋愛ゲームにあるまじきことに、プレイヤーキャラクターが筋骨隆々の雄々しい大男ときている。
「――俺がもしこのゲームのプレイヤーだったら、販売元にクレーム入れて、叩き捨てる」
「……そうだな。神の視点でこの世を眺める者がいたならば――こんなに本来の物語からズレてしまっていては、設定からやり直して、正しい物語にしたがるに違いない……」
「……アイトーン?」
囁くようにこぼれた同意の声音が、やけに強張って聞こえて、アランサスは首を傾げた。しかしアイトーンは素知らぬそぶりで席を立つ。新しい本を探しに行くという。
足早に書架の方へ消える儚い背中を、思わずアランサスは追いかけた。追いかけねばいけない気がした。
薄暗い書物の森の向こう。ひときわ夕闇のこごる片端でようやく追いつくと、その細い背は振り向かずに小さくこぼした。
「どうして、調べる?」
「え?」
「もしここに災獣に繋がる秘密があるとして、どうしてアランサスたちが苦労して調べる必要があるんだ?」
淡々としながら、釈然としない苛立ちに似たものが混じっていた。その珍しさに「そうだなぁ」と困ったように苦笑して、アランサスは答える。
「漫然と巻き込まれてるだけじゃダメな気がしたからかな。なにも分からないままだと、対処は出来ても解決はできないだろ? 俺はもう、あんな光景は見たくないんだ……」
塵と消えた腹の中から大地に投げうたれ、呻く、無残にその身を溶かし壊された人々の姿は――。
「次はああなるのが、メティスかもしれない。リュデやヒロインかもしれない。――アイトーンかもしれない」
アランサスを、空色の瞳が振り向き見上げた。夕闇の中に燦燦と、真昼の空が煌めくようだ。青い空が、アランサスを映している。そのまっすぐな視線に、かすか驚きがあるのを見て取って、アランサスは自然、微笑んでいた。
「俺は――それは嫌だから。それに助けるって……守るって、約束したから。ちょっとは頼れるように、努力しなきゃだろ?」
あの眠れぬ夜に身を寄せ合って交わした言葉は、別にその場の空気に飲まれた出まかせではないのだから。
柔らかに笑うアランサスを見上げたまま、アイトーンの瞳がぱちぱちと瞬いた。桜色の羽根耳が戸惑うように小さく震え、やがてもぞもぞと、アイトーンは己が両手の先を握ったり離したりしながら、ささやくように言った。
「……あの日、昼、蜜漬けの花の話をしただろう?」
「え? あ、うん。したな」
思いもかけない方向からの切り返しに、若干面喰いつつアランサスは頷く。アイトーンが市で気に入ったという輸入物の菓子のことだ。あの夜、力を与えてもらった礼も込めて、購入の手配をし、早々に贈り物にした品である。
「あの花を、翌々日にはもう取り寄せるとは思わなかった。しかも、あんな数……。あれはやはり、とても美味しかった」
「喜んでもらえたなら、よかっ、」
「しかし、あれほど取り寄せられて分かったが、ああした嗜好品はちょっと物足りないくらいがちょうどいい」
「あれ? 苦情かな?」
遮って続けられた言葉に、アランサスはやらかしてしまったか、と、首を捻った。が、くすくすと、鈴を転がすように澄んだ笑い声が耳朶をくすぐり、思わず目を見開く。初めて――聞いた。
「そうだな。苦情だ。でもそういう様になりきらないところ、私は……好きだ」
桜色に色づく唇はほんのりと笑みに染まって、噛みしめるように、以前と違い、確かな意思を帯びてそう告げた。
「アランサス」
「はい」
「私は、お前と過ごした時間が、とても楽しかった。思っていた以上で――会えてよかった」
つい居住まいを正したアランサスに笑って、アイトーンは静かに紡ぐ。
「だからここでお前が探し物の果てに見るものをどう思うか、少し……違うな……ずいぶん、怖かったんだ。でも――……アランサスは、約束してくれたものな。だからもしこの先、災獣の秘密を知って、世界の見方が変わっても、アランサスも私との出会いを、厭わないままでいてくれたら嬉しいと……思う」
「それって、どういう……」
みなまで尋ねる前に、アイトーンは目の前の書架から一冊の本を引っ張り出した。古い本だ。青銀の表紙の色がぼやけ、箔の金文字も鈍くくすんでいる。古木のような香りがした。
それをアイトーンが無言で差し出すままに、アランサスは手を伸ばした。とたんに――
目の前に眩く光が明滅した。頭の中に言葉が、映像が、音声が、ごちゃごちゃに混ざり合い、重なりあって流れ込む。極彩色の雑踏を飛翔させられたような感覚。
ぐらりと眩暈がして、アランサスは頭を抱えて倒れ込んだ。
異変を感じ取ったのだろう。どうした、と、リュデたちが駆け寄ってくる。
「――あった」
なんとか身を起こしながら、アランサスはこぼした。ようやく、七色に点滅していた視界が元に戻ってきた。鼓膜の内でがなり立てていた音もやんできている。
「やっぱりこの図書室には……大きな秘密が眠ってた。いまの本に触れた瞬間、なんでか知らないけど、いっきに内容がなだれ込んできて……」
アランサスは、自身もまだにわかに信じがたい思いで、リュデたちを振り仰いだ。
「この世界、転生してる」
瞬間。
彼らを囲んでいた図書室の風景が、崩れるように消えた。残像が粒子となって視界に舞い、砂嵐のごとく渦巻いて――次にはもう、あたりは、別の宵闇の図書室になっていた。学院の図書室より、ずっと静謐で、ずっと暗い闇に眠る書籍の海。床も、壁も、書架も、白銀の一色で、月明かりにひんやりと照らされていた。広い窓の外には、夜に移ろいゆく空と星だけが見える。
そこは――天空にある図書室だった。
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