予期せぬ救い手



 銀色の刃が舞い、砂塵の嵐が蛇身を穿つ。しかし巨躯をゆすっての尾の一撃と、際限ない黒い弾丸の猛攻は、確実にリュデとヒロインの息を上がらせていた。それなのになお、本体にまで届ききらない。


 舌打ちしてリュデが腕を振り上げると、彼が睨み上げた分裂体の腹から胸元にかけて、次々に細長い剣が突き刺さった。金切り声の絶叫に耳を痛めながら、リュデは突き立てた刃を駆けのぼる。

 叫ぶ喉を斬り飛ばし、さらに高く高く跳躍した空の先。本体の巨体を捉え、注ぐ白銀の矢じりとともにその頭上へと躍り出る。手の内に生み出した槍の穂先がその喉元を貫きかけた――が。


 魔物の上半身の表皮がどろりと溶け、無数の黒い腕となって伸びてきた。リュデの矢じりを叩き落し、槍を降り、腹を殴り破ろうと拳を突き上げてくる。

 それをとっさに紡ぎあげた大刃で防ぎ止め斬り払うも、その隙に守りが薄くなった肩を、錐のように変わった黒い影に貫かれた。

 濃緋が吹き上がり、青い裾が風にはためきながら急速度で落下していく。地面に叩きつけられる寸前で、その身をヒロインが滑り込んで抱きとめた。


「わりぃ、急いだ」

「問題ない」

 詫びる肩へ虹色の光が灯る。すぐ治るのは便利だな、と微笑しながらも、リュデは悔しげに災獣さいじゅうの本体を睨んだ。

 届かない。及ばない。斬りつけなければ石のありかもわからないというのに、分裂体はともかく、本体にはまだ一太刀も入れられていないのだ。腹の中の人々にも限界があろう。急がなければと、どうしも気持ちばかりが逸ってしまう。

 リュデを穿ち、大地に突き刺さった黒い錘は、そのまま揺らめき形を変えて、また新たな分裂体へと変わっていた。身震いとともに蛇身を引きずり、迫ってきている。きりがないと、彼らが歯噛みした。

 その時。


「手こずってるなら手伝ってやろうか?」

 軽やかな声がどこからともなく響いてきた。――瞬間。目の前に紅蓮の炎が燃え上がる。

 大地を走った火の手が分裂体の群れを焼き払い、そこから迸った炎の刃が、本体の首を高く高く刎ね飛ばした。


 黒く血飛沫が舞い、首を失くした巨躯がうねり悶える。だが、そちらに意識をやる余裕は、リュデにもヒロインにもなく、彼らの苦戦を焦れて見守っていたアランサスすら、持ち合わせられるものではなかった。


 遙か彼方の地上から、軽々と地面にふたつの人影が降り立った。似通った黒衣の長い裾が、地底を冷やす風にはためいている。

 片方は大柄な壮年の男。右目の眼帯といい、鍛えられた体躯といい、どこかしらの軍人、武官のようだった。鈍い灰色の髪とすっきり整えられた髭が落ち着いた風体に似つかわしく、氷の水面のような瞳が泰然とアランサスたちを見つめていた。

 その傍らに立つのが、おそらくは先の声の主。アランサスたちより三つ四つ年上だろうか。すらりと長身の青年で、長い黒髪の尻尾が腰元で揺れていた。精悍に整った顔立ちは快活さとともに、危うげな美しさも帯びている。褐色の肌に深く赤い瞳が、炎のように揺らめいて見えた。


「はじめまして、お嬢様がた。俺はレーテ、こっちのおっさんはイジュスな。こんな状況なんで、礼を欠くのはお許しを。通りすがりの正義の味方だ。で、大変お困りとお見受けするが、俺たちが手伝っていいよな?」

 にっこりと人好きのする笑顔は、しかしこの状況では不信感しか煽らない。当人たちも分かっているのか、胡散臭い、とイジュスと呼ばれた男が呆れた様子でこぼしていた。

 そそくさとリュデたちの背に近づきよったアランサスが、小さく囁く。

「な、なぁ、あんだけ大暴れしてたお前らのこと、本当にお嬢様って思ってんのかな?」


 どこまで見聞きしていたかは分からないが、リュデもヒロインも、崖下に降り立った時から、性別を偽る言動はなにひとつなかった。憚りなく荒ぶりまくっていた。元々女性であったならば元気良しで片付くのだろうが、彼らは普通に野郎で雄々しいのだ。お嬢様の要素なんて、装いが気持ちばかり添えて張り付いてるに過ぎない。

 と、そのもっともなアランサスの懸念は聞こえていたらしい。レーテと名乗った青年は愉快げに声をあげて笑った。


「そういう設定で通した方がいいかと思ったんだが、違うか?」

「違いません。その設定でお願いします。細かいところはどうかご内密に」

「んな都合のいい話があるか!」

 爽やかな笑みに思わず乗せられ、背筋を正してアランサスが答えれば、リュデが力いっぱいその頭をはたいた。

「どこの誰だか知らねぇが、きっちり黙らせねぇとだろ」

「物騒だなぁ。んな睨むなよ。綺麗な顔が台無しだぜ?」

 リュデの視線の圧に、戯れてレーテはからかう。横からリュデの怒り顔を見上げるだけでアランサスは背筋が冷えるというのに、豪胆な男だ。


「そちらの装いの事情について、こっちもとやかく吹聴する暇はねぇだけだよ。俺たち正義の味方だからさ。忙しいんだ。こっちとしては、とりあえずこの化け物どもを倒せれば充分なんでね」

「しかし、倒すとはいえあやつらは、」

「虹色の石を封印しないと、だろ?」

 ヒロインを遮って、訳知り顔で赤の瞳は弧を描いた。なぜ、と顔に出た三人にまた可笑しげな笑い声が響く。

「言ったろ? 正義の味方だって。そこの聖女様と同じように、俺たちにも神さまの加護があるんだよ。なぁ、イジュス」

「まあ、それに近いものがな」

 レーテの呼びかけに、イジュスは緩慢にその広い肩をすくめた。

「おかげで聖女が現れるまで、この手の魔物退治は我々の仕事になっていた。だから、この特異な魔物の存在に気づいている者は、ほとんどいなかったはずだ。普通の人間では倒せず、ああして喰われて殺される。語れる者が現れるべくもない」


 そう、イジェスの冷めた青の隻眼は、膨れ上がった蛇の腹に向かった。

 首なしの蛇身が、のたうち動きながら波立たせる腹のうち。重なり合った輪郭がぼこぼこと揺れ動いている。

「首が戻る前にさっさと終わらせねばな……」

「石の気配、あの腹の中からするな。手っ取り早く石ごと燃やし尽くすとすっか」

 にんまり口端を引き上げて、打ち鳴らされたレーテの指先に炎が躍った。瞬間――


「待て!」

 紅蓮が燃えるより先に、強い声でアランサスは命じていた。振り返る、二対の瞳の色のなさに一瞬震え、しかし毅然と言い放つ。

「中の人は、まだ生きてる」

 まっすぐに、アランサスの新緑の眼差しはふたりを見上げた。それにふっと、レーテの笑みが柔らかに歪む。

「へぇ、お優しいなぁ」

 明るい声なのに、嬲られているようだった。

「それってあれか? あの腹の中から生きて助け出せたら、聖女様の力で回復してめでたしめでたしってことか? でもそれってどこまでできるんだろうな。例えばさ、足がなくなってても戻せるのか? 目が溶けてても癒せるのか? 誰かで試してみたことあるか? 身体が治ったとして、心はどうだ? 魔物に呑まれて腹の中で生きながら喰われるって貴重な体験しちまった奴が、そのあとの人生、前と同じ心持で暮らしていけんのかな?」

 笑い声交じりに、楽しげにレーテはたたみかけた。それに、思わずアランサスは言葉に窮す。救えるならばいいと――それがどんな状態かなど、その先にどんな道が待ち受けているのかなど、考えも及んでいなかった。

(でも、それでも、生きてさえいれば――)


「命があるなら苦しんでも生きろってっか? 残酷だねぇ。生きるって、そんなにいいもんか?」

 唇に紡ぐ前に、アランサスの思考は侮蔑の音色につぶされた。だがそれをたしなめる声が、怒りを揺らすリュデでも、睨みつけるヒロインからでもない、思わぬ方から上がる。

「レーテ」

 低く渋い声。氷の青がわずか眉間にしわを寄せ、首を振る。

「ああ、わりぃな、イジュス。お前にも禁句だったかも」

 レーテは懲りた風もない軽薄な口調のまま、けれどもろ手をあげて降参の体を示した。

「失言のお詫びに、お優しさに乗ってやるよ。腹の中の奴らを傷つけず、石を引きずり出せばいいんだろ?」

 ずぶずぶと黒い液体を波打たせ、形を取り戻しつつある女の首に、赤い双眸は微笑んだ。回復までの時間を稼ぐように、どろりと蠢き生まれ出てきた分裂体の群れへ「無駄なことして健気だねぇ」と口笛を吹く。


「イジュス。露払いよろしくな。ちょっと繊細めに攻めてやるから」

「……引き受けよう」

 ため息まじりにイジュスが返す。と同時に、身を低く構えたレーテの身体が炎と溶けた。

 瞬間、イジュスの足元から逆巻いた水流が、しなる糸のように千々に駆け抜け、分裂体の数々を刹那の間に切り刻んだ。そこを縫うように走り抜けた炎の一矢が、膨らんだ蛇腹を貫いたとたん、それを裂いていっきに迸った。


 内から焼かれて切り裂かれた腹が、血飛沫すら焦がされてあげられず、肉片となって飛び散る。とともに、その内に呑まれていた人々も、音をたてて地面に転がり落ちた。黒い体液にぬれ、意識はないが、みな炎に焼かれた傷はひとつもなく、息もある。

 紅蓮の矢はそのまま一息に魔物の脳天まで、悲鳴すら炎に巻いて貫いた。ぐるりと中空で人の輪郭を象った炎のうちから、焔の薄衣をはぐようにレーテの姿が現れる。軽々と地面に降り立った彼の手の内には、虹色の石が握られていた。


 が、そのきらめきがアランサスたちに見えたのも一時。石は瞬きの間に手の内から燃え上がった炎に呑まれ、溶け、灰となった。それに呼応するように、砕かれてなお動いていた災獣の肉片からも炎が上がり――跡形もなく消え去っていく。

 残されたのは、虫の息で転がる喰われかけた人々ばかりだ。


「じゃ、俺たちの仕事はここまでだな。後のことはお任せすんぜ。後悔のない結果になるといいな」

 ちらりとアランサスの方を見やった暗い赤の双眸は、ひらりと手を振ったかと思うと、稲光のような閃光に包まれた。アランサスたちが目をしばたたかせた時にはもう、その飄々とした姿はどこにもなく、ただ、面倒げに吐息をつくイジェスが取り残されているばかりだった。


「またひとりで先に帰りおって」

 苦虫を食い潰して顔をしかめ、そのままアランサスたちを振り返る。

「お前たちも気を悪くしたと思うが、あいつはああいう男だから、厄介なのに絡まれたと思って諦めろ。……言ってることは、一理あるからな」

 ちらりと冷めた視線が向いたのは、倒れ伏す人々の影の上。確かにその姿は、レーテが例えたように五体がそろっているのか危うい者も混じっていた。イジュスがそこに注ぐのは、悲愴でもなく、憐憫でもなく――冷たい諦観だ。


 それが、いやに寂しく映った気がして、アランサスは思わずイジュスを見つめた。瞬間、ふっと隻眼は、彼の方を振り向いた。

「こいつらが駄目でも、お前たちのせいではない。――気負い過ぎず、上手くやれ」

 瞬間また閃光が閃いて、イジュスの姿も消えていた。どんな魔法なのかは分からないが、あの閃光は瞬時に移動を行えるらしい。しかし、彼らが操っていたのは炎と水。女神に祝福された聖女でもない限り、複数の魔法を操る人間はまずこの世にはいないはずだ。

「……神様の加護、か」

 レーテが口にしていた言葉を、アランサスはぽつりとつぶやいた。そういえば彼はなぜ、女神と言わず、あえて『神』と告げたのだろう。


「止める術もなかったが……行かせてしまってよかったのだろうか」

「気に食わねぇ野郎だったな、あの男も……あのおっさんの方も」

 懸念に眉を寄せるヒロインの隣で、ぼそりとリュデが悪態をつく。仕方がないさ、と苦笑して、アランサスは抱き寄せていたアイトーンへ視線を落とした。

「アイトーン大丈夫か?」

 ずっと固く身を強張らせていた彼女はそこではっと瞬くと、いささかぎこちなく頷いた。

「……うん。大丈夫。それより、あの人たちを早く回復した方がいいだろう?」

「そうだな。試みよう」

 ヒロインが倒れ伏す人々へと歩み寄り、祈りの姿勢をとる。彼の帯びた淡い虹色の光が呻く人々を包み込み、谷間を柔らかに照らし出していった。


(後悔のない結果、か……)

 レーテの言葉が、いやに脳の端にこびりついて離れなかった。癒されゆく姿にも、間に合ったという安堵より、不安の方がアランサスの心をかきたてる。

「――生きるって、いいもんではないのかなぁ……」

 無意識に小さくこぼれたその声を、彼の隣で座り込む桜色の髪の少女だけが、そっと聞いていた。





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