本体



 痛む身体を引きずり起こす。足がずるりと重たく動かない。服越しでも感じるぬるま温かく濡れた感触に、傷の深さを知る。とはいえ、落盤に飲まれることも、足元から吹き上がった黒い弾丸に見る影なく撃ち抜かれることも免れた。

 でもそれは避けるのが上手くいったわけでも、盾の形成が間に合ったわけでもない。あとは走り抜ければいいと油断があった。だから、肋骨に響く打ち身と、致命にならぬ弾傷で済んだのは――


「アイトーン……!」

 あの瞬間、抱いた腕から薄紅の翼が視界に広がった。落ち来る岩石と弾丸の嵐からアランサスを守るように包んで羽ばたいて、ふたりはそのままもつれて転がり込んだのだ。

 穿たれた羽根が、薄桃色を濃緋に変えて彼女の作った血だまりに落ちていっていた。「平気」と囁く唇は青く震えていて、焦りと情けなさばかりをアランサスに募らせる。

 きっと守ると言ったのに、ざまあない。


 腕を伸ばして抱き上げる。逃げなければと気持ちは急くのに、怪我を負った足が思うように立ち上がらせてくれなかった。

 ずるずると蛇身が動く音を振り払うように、無理やり足に力を込める。その時。

 逃げ出そうと思っていた細く伸びた道の方からも、背後と同じ音がした。視界に黒い影が飛び込んでくる。形はまだ人頭蛇身ではなく、波打ち這い寄る、黒く粘り気のある流体。あの魔物が放つ弾と同じ質のものだ。それが塊となって押し寄せ、細道を抜けたところで広がり伸びて、背後の魔物と同じ姿を象った。


「……嘘だろ」

 形を溶かして変えられるなど聞いていない。これでは道の細さなど無意味ではないか。そもそもいま、新手に行く手を阻まれた。逃げる場所はない。腕の中のアイトーンは肩で荒く息をし、アランサスも足が思うように動かない。剣もとうに失った。

(――まずい)

 心臓の音が耳元でうるさく喚きたてて、汗が流れるのに、いっきに指先から身体が冷え込んでいくようだ。いくら思考を巡らせても、不利な防戦を繰り広げるしか思いつけない。


 新手がまたあの金切り声のような叫びをあげた。とたん、共鳴しあうように二体が震わせたその巨躯の内から黒い弾丸が雨と注ぎ落ちる。

 名案を思い付く猶予もなく、重ねあげた鏡の盾。それが容赦なく打ち砕かれる甲高い音が谷間に響き渡った。それでもまだ、粘れる。まだ防げる。そうアランサスが泣き言を押し込めて歯を食いしばった。瞬間。

 二頭の太い蛇の尾がしなりうねって、幾重も連ねた盾の壁を弾丸とともに叩き割り出した。盾を紡ぎ生み出す魔力を巡らせた指先に、鋭い痛みが走る。


(まずい、まずい、まずい……!)

 守りの硬さには自信があった。それでも限界はある。こたびの災獣たちの一撃一撃は、あまりに重い。

 先より高く振るわれ落とされた尾の一撃が、防壁をすべて叩き壊した。間を置かずもう一匹の尾の追撃。それを防ぎきる盾の形成は間に合わない。一瞬で眼前まで迫りきたしなる尾を前にして、どれほど情けない顔を自分がしたのか、アランサスは分からなかった。


 ただ、視界が涙に霞んで、風の唸る音が耳に轟いて――それでも震える身体は勝手に動いたのだ。アイトーンを抱き込み己が身を盾とする。なんの足しにもならないだろうけれど。すぐに砕けて無用な肉塊になるだろうけれど。それでも――守りたかった。


 瞬間。ぎゅっとつむりかけた瞳の内に、閃光が滑り込んだ。同時に轟音があたりを揺らす。土煙が舞い上がるとともに、金切り声の悲鳴がこだました。

 アランサスの身体には痛みひとつ走らなかった。もうもうと立ちこめる土煙へ驚きの顔をあげれば、霞む視界に、ちらりと青く可憐なドレスの裾が銀髪ともに翻る。その傍らにはたくましい褐色の背と、黄色のドレス。

「遅参、失礼した」

「お前にしてはきっちり粘ったほうなんじゃねぇの?」


 どれほど、その姿が眩く映ったことだろう。どうしようもなく視界が滲む。耳に馴染んだ声に、先とは違う歓喜の震えが胸を揺さぶった。


「ま……魔法少女に助けられるモブの気持ちがいま分かった……!」

「は? なに言ってんだ?」

 振り向く泣きぼくろを携えたきつい眼差しも、いまは嬉しさしか呼び起こさない。ふりふり可憐なドレス以外、なにひとつ魔法少女要素のない野郎ふたりだが、頼もしさはたぶん前世で姉が盛り上がっていたそれに匹敵する。断言していいと、アランサスはうれし泣きの顔を両手にうずめかけ、はたと気づいた。

「でも、なんでお前たち、ここに?」


 リュデは課題で傷痍兵たちを慰問させられているはずだった。ヒロインは別の課題が与えられていたが、嫌がらせという体で、リュデが自分の課題に引っ張っていったのは見かけていた。慰問先はちょうどアランサスの目的地とは真逆。こんな地の底は当然ながら、火事に飲まれた村ですら、学院へ帰る道すがらに通りかかりしないはずだった。


「アイトーン殿が知らせてくれたのだ」

「アイトーンが?」

「ヒロインとだらだら馬で帰ってたらな、薄紅の小鳥が飛んできたんだよ。で、俺たちの前に来たら急に何枚もの羽根に変わってさ。その地面に落ちた羽根の並びが、ここの真上の村の名を示してたっつうわけ」

「しかと事態は分からなかったが、何事か起きたのは間違いなかったのでな。リュデリエル殿と馬を飛ばし、駆けつけた」

「いつの間にそんなこと……」

 腕の中のアイトーンに目を落とせば、赤みの失せた唇は、それでも弱々しく微笑んだようだった。

「最初に羽を落とされた時……散るのに紛れさせて数枚、鳥に変えて飛ばした。私の魔法は戦う力はあまりないけど、それくらいなら、できるから……」


「良かったな。アイトーンが連絡手段持ってって」

 感謝を込めて細い体を抱き寄せたアランサスへ、リュデが安堵交じりの吐息を落としつつ、肩をすくめた。

「だからひとりで外出るときは護衛巻くなっつったのに」

「だって、アイトーンに伸び伸びさせてやりたかったし! 俺も伸び伸びしたかったし!」

「だから『ひとりで』って限定してんだろ! てめぇだけの身体と身分じゃねぇんだぞ! 身の安全確保する責任感持てよ、このくそ第一王子が! 」

 いらいらとリュデがアランサスをつま先で小突く。まあまあと、それを脇からヒロインが押さえ込んだ。


「ともあれ、ふたりとも命があって良かった。傷ならば私の魔法で回復をはかれる」

 屈みこんだヒロインの大きな手のひらがかざされれば、ふわりとあたたかな虹色の光がアランサスとアイトーンの傷を包み込んだ。痛みが溶け消え、傷口が見る間にふさがっていく。便利なもんだとリュデが口笛を吹き鳴らしたところで、不穏な音が彼らの耳を叩いた。

 一同が振り向く。そこにはどろどろと黒い流体を波打たせながら、災獣さいじゅうが人頭蛇身の形を取り戻しかけていた。


「あんだけ切り刻んでやったのにな」

「やはり封印を行わねば、倒せぬということだろう」

「じゃ、もう一度弱らせて、次はしっかり封じてもらわないとな」

 にんまりと、リュデは口端を引き上げた。

「アランサス、俺とヒロインで石を引きずり出してやる。お前はその間しっかり防壁張ってアイトーン守って、」

 瞬間、身体が飛び上がるほどの地鳴りが、空気を痺れさせた。形を取り戻した二体の災獣の向こう。谷間の奥からなにかが、来る。


「……おいおい、冗談だろ……」

 泣きぼくろが彩る秀麗な顔に、焦りが滲んだ。

 暗い谷間の道から姿を見せたのは、もう一体。姿かたちは同じだが、はるかに大きく、ずり寄るごとに身体からしたたり落ちる黒い液体から、二体の災獣と同じ個体が生み出されていっている。


「なるほど……。こやつらはあくまで産み落とした分裂体。あれがこの災獣の本体というわけか」

「そんな、だって、分裂体だっていままでの以上の力があったのに」

 その時、震えるアランサスの瞳は信じられないものを目にした。

「あ、あれ……」

 上擦る声で指さす。災獣の本体がぐっと上体を持ち上げたことで見えた、腹の部分。その蛇腹の一部が不自然に膨らみ、その上ぼんやりと透けていた。中に、蠢く影がいくつも押し込まれて見える。人間の影だった。


「村から消えた人たちだ……」

 静かに囁いたアイトーンの言葉に応えるように、腹の影のひとつが苦しげにぼこりと動き、表皮を波立たせた。まだ生きているのだ。生きながら、腹の内で喰われているのだ。

「え、えぐい……」

「だがまだ、救える余地はあるということだ」

 口元を覆うアランサスの視界を、広い褐色の背が遮って立った。諭すような穏やかな声音。しかしそこには静謐な怒りが燻ぶり、虹色の双眸はそらされることなく、呑まれた人々の悲惨な姿を見据えている。

「私の回復が間に合ううちならば、救える」

 可能性の提示ではなく、決意の表明がそこにはあった。だからきっと、彼は聖女なのだろう。妙な納得とともに、アランサスは初めて、ヒロインが女神に選ばれたことを疑問なく受け入れられた。


「――んじゃ、ひとつやってやろうか」

 束の間浮かべた恐怖まじりの焦燥を華やかにかき消して、ヒロインの隣、紫の瞳が楽しげに笑った。

「私、及ばずながらお手伝いいたしますわよ? 聖女様」

「む……それは、その、感謝す……いたしますワ」

「っしゃ! 行くぜ、ヒロイン!」

 戸惑い溢れるヒロインの返答に心地よげに笑い声をあげて、海色のドレスは地を蹴り、走り出した。その背にあたたかな微苦笑をこぼし、ヒロインも後を追う。

 青と黄色が風を切って鮮やかにひるがえり、銀色の刃が分裂体の群れへ、煌めきながら雨と降り注いだ。






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