前世をとどめる場所


 ◇


 大きな月からこぼれる光が、雲海を染めている。

 白い宮城の一角、繊細な格子細工の丸窓から月明かりが鮮やかに差し入っていた。並び立つ書架の影がより艶やかに、こっくりと浮き上がっている。

 その窓辺には、しょうの腰かけが寄せられていた。座面が低く広いその椅子に半ば寝そべるようにして、レーテは身をもたせていた。傍らには積み重ねた本と、菓子を盛りつけた皿。たまにそれをつまみつつ、骨ばったしなやかな黒い指先はページをたぐる。その乾いた音をたてる彼の手元を照らすのは月明かり、そして――揺らめくいくつもの火灯りだ。それらは宙に浮かび、燃える元もないのに煌々とあたりを照らしていた。


「アイトーン、うまく潜り込めたみたいで良かったな。あいつ、あんなだから心配してたんだ」

 ふいに口端を引き上げ、レーテは声だけで来訪者を迎えた。長い白衣を裾引く、尖った耳の綺麗な青年。その麗しい柳眉が、ぎゅっと顰められていた。

「読書好きなのはいいけどさ、図書室で堂々と火気使うとか、正直考えられない。っていうか、食べ物つまんだ手のままでページめくるのやめろって言ったはずなんだけど」

 ちくちくと苦言を呈しながら、けれど無駄を知っているのだろう。そのままレーテの正面に腰を下ろして、ハバリは首を傾げた。

「で? なに読んでたの?」

「『破天のエルピス~聖女に捧ぐ希望』」


 さらに渋くなった顔にレーテはからからと明るい笑い声をたてた。

「ちゃんと読んだことあるか? 結構面白いぜ? 主人公はローゼサス王国の聖女なんだけど、異民族の出自。そのせいで入学した魔法学術院で聖女と認められず苦労すんだよ。けど、学院生活で自分磨きしたり、災獣さいじゅうを封じたりしていくうちに、様々な男の心を奪いまくっていくっていう……知ってたか?」

「不本意ながら熟読してるよ、その話」

「だろうな。なら、どのルートが好みだ? 王道の第一王子ルート?」

 ぶすっと不機嫌な音色を気にも留めず、深い赤の瞳は紙面を辿る。途中で文字の途切れた、半分白紙のページ。その不自然な空白を長い指先が撫でれば、するりと文字が浮かび上がっていった。彼らのいる城と同じように、ここの本たちは時に内容が変わるのだ。


「面白れぇよな。ここの書架には、この世の前世が詰まってる。転生者じゃなくてもここの本を読めば、前世の知識を紐解ける。お前に与した役得だろうな。あ、やっぱ王子より、謎の転校生として潜入してきた暗殺者ルートにしとくか? かなりお奨めだぜ」

 からかうレーテに、ハバリはその秀麗な顔をさらにしかめた。

「そのルートだけは絶対に攻略しない」

 語気も強く言い切って、彼はレーテの手元から菓子を奪って口に運んだ。

「んなこと言うなよ。最初に手ぇつけたくせに。それに、俺は結構優秀なお前の飼い犬やってると思うぜ?」

 そう屈託なく笑う首筋に、レーテの指先が這う。その軌跡に、ハバリはちろりと視線を投げた。普段は襟に覆われて隠れた首元がくつろげられ、炎の薄明りの元のぞいている。そのハバリとは真反対の褐色の肌の上、ぐるりと首を一周する赤い線が、首輪のように彫られていた。レーテの住んでいた国では、その刺青は罪人の証だ。


「駄犬がよく言う。それに君のその首輪は、別に俺がつけたわけじゃないでしょ」

「でもこの首輪があるような男だから、お前は俺を最初に引き込みに来たんだろ? 駄犬だろうと」

 したり顔の赤い瞳に、不満げな一瞥。それだけで、レーテにとっては十分なハバリからの返答だった。

「お前には面倒事だったかもしれないけどな? 俺にとってはただ人を殺してるより、ずっと楽しかったぜ、希虹石きこうせき集め。この世の仕組みが厄介で助かった。単純に、お前の力だけで世界を思うままに出来たなら、俺たち出逢わなかったもんな? 世界を塗り替えるのに必要な聖女と希虹石の力。そいつを手にするために、お前は攻略対象者を手駒に加えなきゃならなかった。だから、一番引き込みやすそうな俺を、手始めに攻略しにきてくれたわけだろ?」


「もう少し待てばイジュスが楽に落とせるって、分かってさえいたらね。君になんて声をかけなかったのに」

 つれなくこぼしてハバリは肩をすくめてみせた。レーテの快活な笑い声が火灯りに踊る。

「そいつは難儀な予測だったろうな。俺を除いた攻略対象者は、みんな良き家柄の良識ある奴らだったんだろ? この世を滅ぼそうなんて愉快な誘いに乗るような、遊び心はなかったろうぜ」


「その点君はふたつ返事だったもんね、レーテ。もう少し悩めよって思った。厭世観ないどころか、それなりに人生楽しそうにしてたくせに」

「いやぁ、でも世界滅ぼせるなんて、それこそ一生に一度しかないだろうしなぁ。やっておいてみないと損だと思ってさ」

「君のそういうことろ、俺嫌い」

 晴れやかな笑みをたたえる好青年に、ハバリの眉根は不快感たっぷりに寄せられた。


「ひどいな、ハバリ様。忠実なる配下に手厳しい」

「忠実な配下を自負するなら、せめて態度で示せよ、態度で」

 主の姿を前にしても居住まいを正すことなく、のんべんだらりと横になっている男がなにを言うのか。忌々しげに虹色の双眸は睨んだが、レーテは気にする素振りすら見せなかった。


「十分示してると思うんだけどなぁ? 昨日だってきっちり災獣ぶっ倒して、石を封じてきてやっただろ?」

「余計な目撃者を増やすなっていってるのに、ばっちり近隣の村人に見られたんだろ」

「だからそいつらもまとめてちゃんと始末してきたじゃねぇか」

「そこだよ、そこ」

 小さくハバリは舌打ちを口の中で転がした。

「災獣に関しては、下手に噂が広まらないように気をつけて始末しろ。その際いらぬ犠牲は出すなって命じてるのに、ひとつも守れてないじゃないか」

「どうせもうじきみんな滅んじまうなら、いつ死んでも変わらなくね?」


「俺、別に善人じゃないけど、お前みたいなクズの道楽に加担させられるの、大嫌いなの」

 レーテの軽い返答に、切れ長の目元が冷たい視線を投げた。瞬間。小さく弾いたハバリの指先から閃光が走る。一閃、針のような稲光が空間をよぎり、レーテの褐色の頬から一筋赤い血が伝った。

「お前は手駒なんだから、ちゃんと大人しく俺に使われてさえいればいいんだよ」


 揺れ浮かぶ炎に虹色の瞳が凍えるように煌めく。レーテは思わず口端を薄く引き上げた。こういう時のハバリの痺れる空気は、いつもぞくりと、彼の背筋を甘くくすぐる。

「仕方ねぇなぁ……。じゃ、配下らしく、ひとまず火気厳禁あたりから守っておくか」

「あ、ちょっと。急に暗くなると、視界がさ……」

 頬の血を拭う。そのレーテの動きに合わせて火灯りが消えると同時に、ハバリの纏う空気も急速にほどけた。いつものただの不機嫌で、尖った語調が文句をこぼす。

「気遣えよ、主を」

「あ、老眼か? 悪いな。千年も生きると大変だよなぁ。不老長寿も考えもんだぜ。俺はやっぱ太く短くがいいわ」

「ほんと、君のそういうところ嫌い」

 にやつくレーテの脛を、暗い中でも過たずハバリは力いっぱい蹴りつけた。








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