どんな書でも、そこには何者かの念が残されているものである
……はあっ。
耳元に熱い息がかかるのを感じ、西宮は背後を振り向いた。
当然、誰もいない。いるはずがない。後ろの正面にあるドアもちゃんと閉まっている。
「……誰かいますかー?」
慌てて外に出て呼びかけてみるも、返事はない。最も、「いるか」と問われて出てくる人間なら、背後から存在を主張するような真似はしないだろう。
吐息のようなものを聞いたせいか、部屋に何者かがいるような感覚に陥る。
——待てよ。
古本屋のときも、似たような感じにならなかったか?
背後から視線を感じて思わず振り向いた、店内での記憶を思い出す。『異物』を読んでいたときに起こった。
『——せっかく買おうと思ってもらってるところ悪いが、これは売れない』
店主の青年の言葉が思わずよぎる。彼が売りたがらなかった理由と関係があるのだろうか?
——そんなはずはない、気のせいだ。
かぶりを振る西宮。
人間の思い込みとは恐ろしいものだ、と何かで読んだことがある。だからきっとさっきの感覚も思い込みなのだ。
苦い生唾を飲み込みながら、そう言い聞かせた瞬間だった。
ぼたり
雫のようなものが垂れた。
耳元でその音を聞いた直後、西宮の直感はそう告げていた。それも、大きな雫だ。
水漏れや雨漏りを疑って天井を見上げる。木造の天井からは、一滴たりとも汚水などが染み出している様子はない。
ぼた、ぼたとまた続いた。同時にあぐらをかいた自分の膝元に黒いものがはみ出してくるのが見えた。
——何だ、これ。
ドアに向けていた視線を本に戻す。
開いた原稿用紙から真っ黒いインクが、今まさにぼこぼこと沸騰した泡のように沸きあがっていくところだった。
続々と湧き上がるインクは若草色の畳の上に垂れ続け、水たまりを作っていく。重力など無視するかのように上へ上へと盛り上がっていき、やがては西宮の目の前で人の形となった。
「……へ」
からからに乾いた西宮の口は、枯れた声でそう発するのがやっとだった。
肩まで伸びた蓬髪は、初めて会ったときよりもぼさぼさになっている。
「怪奇庫」の閉ざされたガラス戸の向こうにいた雀色の目が、西宮を見下ろしていた。
「うわああっっ!!」
ようやく出た叫び声とともに、本を勢いよく投げ出す。『異物』は開かれたまま、部屋の隅の壁にぶつかってから畳に落ちた。
インクでずぶぬれになった男は、西宮を見下ろしている。
「……しい」
枯れた声で男が呟いた。
「くやしい、くやしい、くやしい」
くやしい。悔しい。
男は無念の言葉を読経のように吐きだし続けている。うつろな両目を西宮に向けて。
——何なんだ。
この男は誰なのか、自分に一体何をしろというのか?
西宮は震えながら、読経のように無念を吐き続ける男を見上げているしかできなかった。どうすれば、この男は鎮まってくれるのだろうか?
言葉をぴたりと止めた男は、骨と筋ばかりの手で胸を抑えて苦し気な咳をする。ごぽりと粘り気のある赤黒い血が吐き出され、西宮の裸足の足にかかった。ひいっと情けない声をあげると、鉄の生臭い匂いが鼻孔に侵入してくるのを感じた。
この男は誰なんだ?
西宮はもうそれしか考えることができなかった。
男は、がふっ、がふっと病的な咳を続けている。咳をするたびに、男の口からは血反吐が飛び出し、畳を汚す。
火事場の馬鹿力というものなのか。今にも腰が抜けそうだが、西宮はようやく立ち上がることができた。
玄関のドアまで一メートルもない。靴を履くのを諦め、もたつかずに鍵を開けられればすぐにでもここから逃げ出すことができる。
ドアノブに手をかけたとき、肩を掴まれた。万力のようなものすごい力に思わず振り向いてしまう。
「まってくれ」
西宮を見つめる雀色の目。視界の端で見えた自分の右肩には、べっとりとした血がついていた。
うわあああああ!!
自分の悲鳴を他人事のように聞きながら、死に物狂いでドアノブを左右に回す。
「なんで、なんで開かないんだ」
出られはしなかった。
何度も勝手に開いていたはずのドアは、がちゃがちゃと空回りするばかりで開かなくなっていた。
西宮を出すまいとするかのように。
「たのむ」
ずる、ずると足が後ろに引きずられる。右肩にかかった男の手が、少しずつ後方へと引っ張っていくのだ。
「いやだ、いやだ、いやだ……」
もはや半べそをかいていた。ドアノブから手が離れ、遠ざかっていく絶望を感じながら。
この先一体どうなってしまうのか、自分はどこへ行くのか。
がちゃり、と金属音が響いた。
「そこらへんにしておきな」
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