助け人は遅れてやってくると決まっている

あんなに開けられなかった玄関は、外からの第三者にあっさりと開けられた。

「あな、たは……」

 うなじのあたりで結んだ黒髪。この世のすべてを憂うようなじっとりとした目つき。

 古本屋「怪奇庫」の若き店主だ。

「おー、こうしてあんたと会うのは初めてだな。作家先生」

 ——作家先生?

 あの男のことを言っているのだろうか?

「初めましてのところ悪いが、作家先生よ」

 重苦しい視線は西宮の方など見向きもせず、蓬髪の怪人物だけを鋭く見据えていた。店主にも見えているらしい。

「小説なんて高尚なもの、俺は一度も書いたことがねえ。だけど、これだけはわかるぜ。読者を怖がらせていいのは小説の中でだけじゃねえか?」

 恐る恐る背後を見る。

 蓬髪の男は、身じろぎ一つせず、店主の方を見ていた。心なしか、恨めし気な目つきで。

 店主は無表情のまま、続ける。

「あんた自身が読者を怖がらせてどうするよ?」

 はあ、と店主が大きく息継ぎした。

「嫌なことを言うようだが、そんなんじゃあ作家失格だと俺は思うぜ」

 店主の声が聞こえているのかはわからない。だが、蓬髪の男は直立したまま店主をじっと見つめていた。

「話があるのか? なら、聞いてやる」

 状況がわからない西宮を挟んで、見つめあう店主と男。

 先に動いたのは怪異である男の方であった。

 西宮の目の前に立っていた男の全身が黒いインクに変化した。そして、意思を持っているかの如く、インクはまっすぐ店主の体内へと飛び込んでいったのである。

「……ぐうっ」

 黒いインクが侵入したためであろう、店主は頭を抱えてその場にうずくまった。

「だ、大丈夫ですか?」

 慌てて駆け寄る西宮を「待て」と制するように、店主の左手が伸びる。

「……今、話を聞いているところだ。静かにしろ」

「話?」

 店主はそれ以上、西宮に返事をしなかった。その代わり、重いため息とともに「そうか」「なるほどな」などと、ぶつぶつつぶやく始末であった。

 ——何が起きているんだ?

 西宮は自分だけが取り残されているのを感じた。

「……わかった。その男に頼んでみるよ」

 己の足元を見つめる体勢のまま、店主はそのようなことを告げた。

 「その男」とは誰の事だろうか? 西宮が考えかけたとき、店主の丸まった背中から、黒くどろどろとしたインクがぶわりとあふれ出していった。

「……うわっ!?」

「落ち着け。本の中に戻るだけだ」

 ぱんぱん、と汚れを払うように両手を打ち合わせながら店主が立ち上がる。

 黒いインクは畳の上をずるずると伝っていき、『異物』の頁の中に戻っていった。やがて全てのインクを吸収した本は、役目を終えたようにぱたりとひとりでに閉じる。

 西宮の部屋は、奇怪な出来事など何もなかったかのように綺麗なままだった。男が吐瀉した血反吐など、一滴も落ちていない。男の血がついていたはずの右肩も、まっさらなままである。

「ふう、戻ったな。素直なお方で助かったぜ」

「あ、あのさっきのは何だったんですか?」

「あ?」

「男性の姿が黒いインクみたいなものに変わって、それからあなたに降り注いだじゃないですか」

「ああ、あれか。憑依だよ」

「ひょーい?」

「魂を俺の身体に乗り移らせたんだ。真っ黒いのは、奴の魂の力の源みてえなものだ」

 それだけのことさ。

 店主はそれ以上説明してくれなかったし、説明された分も何のことやらさっぱり理解できなかった。

 聞きたいことは山ほどある。

「……貴方はそもそも何者なんです?」

 突如西宮の部屋に現れ、少々やり方は乱暴だが、本から出てきた人間ではない男を元に戻した。普通の人間であるはずがない。

「――そうだな、どこから話せばいいかね」

 黒髪の店主は、ぽりぽりと面倒くさそうに頭を掻いた。


「まず、あんたには謝らせてもらう。危険な目にあわせて悪かった」

 西宮と向き合う形で畳の上にきちんと正座をした店主は、深々と頭を下げて謝罪した。

「もうわかってると思うが、今日あんたに売った本のうちの一冊は、わかってる通り尋常のものじゃない。けど、あえて俺はあんたにそれを売った」

「いいですよ、謝っていただかなくても。欲しがったのは僕ですし」

「それもそうなんだが、本来だったら俺はそれを何が何でも食い止めるべきだった。まさか、あいつがここまでするとは思わなかったからな」

「……あいつっていうのは、さっきの人ですか」

「ああ、そうだ」

 西宮の部屋の畳の上で胡坐をかいた店主は、両手の中の『異物』を弄びながらそう言った。

「執着してんだ、この本に。何しろ、未完成のまま作者が生涯を終えちまった作品だからな」

「それって……」

「あいつが『異物』の作者だ。三木浩二だよ」

「——だから、作家先生って呼んでたんですね」

 店主は繰り返し、あの男のことを「作家先生」と呼んでいた。

「そういうこった。——で、さっきの話に戻るんだがな。俺はあんたを泳がせてた」

「は?」

「あんたなら何とかできるかもしれねえ、と踏んだうえであの本を売ったんだよ」

 わけがわからず目を瞬かせることしかできない西宮。

「今日、店に来たとき『髪がぼさらけて、やせ細った男が店にいなかったか』と、あんたは聞いたな。俺はそんなやつに今まで見覚えなどなかった。だが、しばらくして思い出したんだよ。この本に憑りついている男かもしれない、ってな」

「そう、なんですか」

「ほら、これだよ」

 店主は、懐から掌に収まりきるような長方形の紙を取り出し、床に置いた。

 それは小さなモノクロの写真で、一人の人物を写している。

「……この人」

「同じだろ?」

 どこかの部屋だろうか。

 本がぎっしりと詰まった本棚を背に、胡坐をかいた一人の男が無表情で撮影者の方を見ているのを写している。

 まぎれもなく、インクとともに現れたあの男だった。写真ではぼうぼうと生えていた髭こそないが、全く同じ顔をしている。

「……この部屋にいたときは、もっと痩せてましたよね」

「まだ、元気だった頃の写真だそうだ」

 淡々とした口調でしゃべる店主の手が、『異物』の表紙を撫でる。

「『三木浩二』っていうのは本名ではなく、筆名だそうだ。あの本は三木の遺族——姉さんから渡されたものでな」

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