小説『異物』 中盤
どれだけ歩いたのでしょうか。人でにぎわう大通りに出ました。
人でにぎわうそこは数年前、東京を襲った先の大震災でほとんどの建物が崩れたところでもありました。しかし、今や復興用のバラックを建てて商売を再開している店が多く並んでいます。
私はまだ高取くんのこと、彼の顔に起きたことを考えていました。私の指が触れた肌はすべすべとしていて、本物の人間の肌のように思えました。
しかし、ならば何故彼の顔には大きなほくろがついていなかったのでしょうか? 私にはやはりそれが不思議でなりませんでした。
鼻先を生臭いにおいがつき、ぴたりと足が止まりました。
魚屋でした。特に何かを買うつもりは毛頭ありませんでしたが、私の意識は魚たちへとくぎ付けになっていました。冷やかしかと怒られるかもしれませんでしたが、鉢巻を締めた店主の親父さんも、赤子を連れた母親との話に夢中でしたので、何も言われはしませんでした。
店の大きな台の上に等間隔で並んだ行李。その中には鱚やら鯵やら、その他名前のわからぬ魚が売られています。
目を滑らせているうちに、尋常でないものを見た気がしました。ずらりと並んだ魚の中では、絶対に混ざっているはずがないもの。しかし、それは混ざっておりました。
それは男の顔でした。店主の親父さんの顔などではありません。私はそのとき、品物である魚を見ていたのですから。
その男の顔は、一尾の鰺の体表についていました。とても信じていただけないかもしれませんが、私は嘘など申しておりません。私は実際にこの目で人間の男の顔がついている魚を見たのでございます。
白目ばかり大きい目をかっと見開いたまま死んでいる鯵の体表で、その男は眠るように目を瞑っていました。鯵の体の中央、棘のようなぜいごの上にぴったりと貼り付けられたように。
私の目は何を見ているのか。人の顔をしたような魚が時折見つかるという話は昔からありますが、人の顔がついた魚などはついぞ聞いたことがありません。
動けないままじっと見ていると、その男が目を覚ましました。白目の部分は銀色の鯵の皮と同じ色をしていますが、瞳の部分だけが墨で塗ったように黒いのです。まさしくあれは、人間の目でした。
その目はしばらくあたりの様子を伺うようにぎょろぎょろと動いていましたが、ついに私と目が合いました。
私の視線に気づいた男の口の口角が、ゆっくりと持ち上がりました。歪むような嫌な角度で、にいっと。
そして、言葉さえも発したのです。
「気がついちまいましたか」
痰が絡んでいるような、気味の悪い声でした。
「どうしました。どうしたんですか、お客さん」
店主の親父さんに揺さぶられるまで、自分がわあわあと喚き散らしていたことにまるで気がつきませんでした。
「な、何なのですか、これは」
つっかえながら魚を指さした私のことを、店主は不思議そうな顔で見ていました。
「何って、鰺ですが」
「そんなことを言っているんじゃありません。僕が言っているのは、この鯵についている男の顔です」
店主にもわかりやすいように、私は鯵を指さしました。人の顔を指さすなど失礼なことではありますが、その男の顔がついていたのは魚の身体なのですから、礼儀など構う必要はないと思いました。
「ああ、なんだ。そんなことか」
私の指の先を見た店主の返答は、笑ってしまいそうになるぐらい淡泊なものでした。だからこそ、私は耳を疑いました。
「なぜ、驚かないんです」
「驚くも何も、鰺の身体には男の顔がついているものでしょう。昔からそう決まっている。そうでしょう? 奥さん」
先まで話をしていた子連れの母親に店主は同意を促すと、目を丸くして私たちの話を聞いていた彼女も「ええ、そうですわね」と、こくこくと頷くのでした。
その場で納得できていないのは私だけのようなのです。
「なら、全ての魚には顔がついているというのですか」
「そりゃ全てについているわけじゃあありませんよ。ついていないのだっています。しかし、鰺には昔からついていますよ。魚屋の私が言うんですから、間違いない」
「なぜです。なぜ鯵だけなのです」
「そんなことはさすがに知りませんよ。しかし、そういうものなのです。お客さん、こういうふうに考えればいい」
店主は鯵の乗った行李を手に取ると、尾ひれのそばの棘のようなものを指さしました。
嗚呼、悪夢のようでした。そのとき、私はまた見てしまったのです。
鯵の体表のあのいやらしい顔が、店主の太い指を見てにやにやと笑うところを!
しかし、店主はそんなことに気に留める様子もなく、尾ひれの近くを指さして話を続けました。
「この棘のような『ぜいご』と呼ばれる部分だって、鰺にしかついていない。この魚の大きな特徴なんですよ。この顔だってそれと同じ、そう考えればいい」
「そうそう、そうですとも」
鯵についた男は笑うだけでなく、店主の言葉に同意するようにはっきりと口を利きました。
「何一つおかしいことなどない。これが自然の摂理というものなのですよ」
店主は己が両手に抱えた鯵男の言葉に満足そうな笑みを浮かべながら、うんうんと頷いてるのでした。
「しかし……」
そんなことあるはずがない。私の知っている「自然の摂理」にそんなものは存在しない。
私はそんな言葉を続けたかったのですが、口に出されることはありませんでした。
店主も、赤ん坊を背負った母親も、こちらを見ていました。私たちの話を聞いていた通行人たちも、足を止めて私の顔を見ています。
彼らは一言たりとも言葉は発しませんでした。しかし、彼らが皆同じことを考えているであろうことは目つきでわかりました。
——何だこいつは、こんな簡単なことも知らないのか。
——こんなみょうちくりんなやつが、この世にいたんだな。
まるで、珍奇な見世物を見るかのような好奇の視線。
とてもじゃありませんが、その視線が耐えられませんでした。
一言、二言謝罪のような何かを口走って、その場をあとにしました。
少なくとも、二度と鯵は食べられないであろうことを憂いながら。
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