小説『異物』 序盤
それが始まったのは、朝から天気の悪い日であったことをよく覚えております。
確かその日は、祭日で仕事のない日でございました。目が覚めてすぐ額の中がずきずきと痛みました。些細なことかもしれませんが、起き抜けはいつも気分が良い私にしては珍しいことでした。
起き上がった私は大きく深呼吸すると、嫌な感覚が鼻から肺臓へと通り抜けていきました。
なんだか、空気がおかしいように感じられました。軽い気体にねっとりと重苦しい泥を絡み付けたような、そんな重苦しい感覚に顔をしかめました。
あれはその直後に起こったことへの前ぶれ、否、すでに私が巻き込まれていたことを告げる合図だったのでしょうか。
朝食を食べようと、寝室の障子の引手に手をかけたときでした。
「あれ、おかしいな」
思わず、声に出していました。
私の寝室の障子の紙には一か所だけ穴が空いております。以前、部屋に重いものを運ぼうとした際に、誤ってこしらえてしまったのです。お恥ずかしい話ですが、修繕するのも面倒臭くそのままにしておりました。
おかしい、と感じたのはその穴の位置です。
その破れた穴の位置がどうも違うところにあったのでした。私が覚えている限り、穴は引手のすぐ右隣にあったはずだったのですが、そこは微塵も破損しておりませんでした。
代わりに、さらにその隣の障子紙が内巻きに破れていたのです。神に誓って、記憶にない破損でした。
「穴が勝手に別の箇所に移動していた」とでもいえばいいのでしょうか。しかし、そんなことが現実に起きるわけがないのですが。
いまだに夢でも見ているのか、と思い頬をつねりました。引っ張られる感覚と、鈍い痛みが走りました。
とにかくそこで悩んでいても仕方がないので、私は居間に降りて朝食を摂ることにしました。
台所から前日に炊いた白飯と漬物の容器を持ってきて、食べ始めましたが、すぐに箸を動かす手が止まりました。やはりというか、再び異変を発見したのです。
漬物を載せた小皿の表面には、茄子の可愛らしい花が描いてあります。
その色合いが少し変わっていられるように見えました。もともとの染料は薄い空色だったものが、藍色に代わっているのです。
藍色から空色になっていたのであれば、使い続けて色が剥げたのかしらと思えるでしょう。しかし、濃くなってしまうというのはなかなかない現象ではないでしょうか。
考えこんだせいか食欲が失せてしまい、そこで箸を置いてしまいました。
外を歩けば、また何か変わるかもしれない。私がその考えに至るまで、さほど時間はかかりませんでした。
気分がふさぎ込んでいるから家の中で変なことが起きているように感じるのだろう、と。
玄関先の門をくぐると、今にも世界が終わってしまいそうな灰色の空が広がっていました。
朝のひんやりとした空気を感じながら、私は周りの風景に目を凝らしながら歩きました。
電信柱、民家の屋根の色、通りかかった夫人の着物の柄……。どこかに僅かでもずれはないか、変異はないだろうか……、と。
目に力を入れすぎて見ていたのでしょう。手をつないでお出かけに行く最中らしき親子連れが、私に化け物を見るような視線を投げかけてきたところで、風景に身をやつすのをやめました。
自分がやっていたことが恥ずかしくなったのと、ある理論が私の脳内を覆いつくしたからです。
当然ですが、目に見えるものには限界があります。はたして、私の肉眼が捉えている世界の表面だけで「異変が起きている」と判断がつくのか? 否、そんなわけがなかろう。もしかすれば、肉眼では見えない微細な世界で異変がすでに起きているかもしれない。しかし、そうならば気づくことなど私にはできまい。ならば、周りを気にしたって意味などない。
他人が聞けば、訳のわからない理屈かもしれません。屁理屈を立てるぐらい、その時の私には自分がやっていたことがひどく馬鹿馬鹿しく感じられたのです。
それから、何も考えず歩き続けました。何も思い煩うことがやはり最善だったのでしょう。その頃には気分も良くなり、どこかの店で軽く食べようかと思っていたときでした。
A川のほとりで輝く水面を見つめながら歩いていると、ぐいと肩を掴まれました。
何事かと振り向くと、同年代の男が一人。にこやかに笑う目の上の太い眉からは、豪快そうな印象を醸し出していました。
「似ているなと思ったら、やはり椎名くんだった。朝の散歩かい」
決して自慢なぞするわけではございませんが、私は一度会った人の顔形はなかなか忘れたことがありません。
しかし、「椎名くん」と馴れ馴れしく呼びかけてきたその男の顔には、まるで見覚えがありませんでした。
「すみませんが、どなたでしたか」
困り果てて正直に聞くと、相手は少し気を悪くしたように「おいおい」と漏らしました。
「なんだ、すっかり忘れてしまったのかい。高取だよ。中学時代という青春を共に過ごした仲じゃあないか」
ようやく、そこで思い出しました。
「そうか、あの鉛筆芸の高取くんか」
私が府中の中学に通っていたころ、同じ学年に鉛筆を指でくるくると回すことが上手い器用な学友がいました。それが目の前の青年、高取章太郎くんだったのです。
それを聞くと、高取くんはまた嬉しそうに笑いました。
「そうだよ、思い出してくれたようで何よりだ。久々にあの特技を披露したいところなんだが、鉛筆を携行していないのが残念だ」
高取くんの冗談に笑っていると、あることに気がつきました。
「しかし君、左目の下に大きなほくろがあったよね。今はないようだが、消したのかい」
蘇った記憶の中での高取少年の左目の下には、小豆よりも少し小さいぐらいのほくろがありました。
しかし、十年経って成人した彼の左目の下にはそれがなかったのです。だから、初め呼び止められたときも、彼だと認識できなかったのでしょう。
高取くんは至極変な顔をしました。
「一体、何の話だい。毎日鏡で自分の顔を見ているが、僕の目の下にほくろなどないよ」
「あったよ。あんなにひどく気にしていたじゃないか」
十代というのは自分の容姿などに必要以上に気を遣うものです。高取くんも目の下のほくろを時折気にして指でいじりながら愚痴をこぼしたりして、その度に私や他の友人などが「ほくろの一つぐらい、誰も気にしやしないさ」などと慰めたものでした。
私がその思い出話をしても、彼は不審そうに首をひねるばかりでした。
私が「本当だ、嘘は言っていない」と熱く語っても、 「椎名くん、それは君の思い違いだよ。きっと、誰か別の人と混同しているのさ」とあしらわれるばかりでした。
「本当かい。実は消しているんじゃあないのかな」
精神が少々錯乱しかけていたことは、あとから自分で振り返ってよくわかりました。
なんだい椎名くん、やめたまえ!
裏返った高取くんの声をどこか遠くに感じながら、私の両手は彼の顔を掴んで引っ張っていました。
嘘なのだ。高取くんは、ほくろを見られたくないという一心から私に嘘を言っているのだ。本当は彼の顔にはまだほくろはついていて、彼はそれを化粧で隠している、あるいは人間の皮膚に似た仮面のようなものを貼り付けて隠しているだけなのだ、と。
ぴしゃり、と音を立てて私の手が乱暴に振り払われました。高取くんの掌が私の手を払いのけたのです。
「放してくれ、痛いぞ。一体なんだってこんなことをするんだ」
私に掴まれて真赤になった頬をさすりながら、高取くんは私に憤怒の視線を向けました。
にらまれてしまうのも無理はありません。どこまでも下らない妄想に憑りつかれていたことをようやく理解し、冷静になったと同時に「ああ、俺は一体何をやっていたんだ」という後悔と絶望が全身を覆っていきました。
「すまない。本当にすまない」
それだけを言うのがやっとでした。
「どうしてしまったんだ、今日の君はどうもおかしいぞ。アヘンでもやっているんじゃあるまいね」
「そんなものはやっていない。僕は正常だ。ただ……」
この世界に異変が起きているということを私は伝えたかったのでした。しかし、言葉はうまく出てきてくれませんでした。
代わりに「ねえ、君は本当に高取章太郎くんなんだろうね?」という不思議な問いが口から飛び出ていました。
どうしてそんなことを言ったのか。自分でもよくわかりません。
「そうだ。正真正銘、僕は高取章太郎だ」
高取くんは正々堂々と言い切りました。
「わかった。なら、いいんだ」
それから、私は彼を置いて歩き始めました。後ろで彼が私に向かって叫んでいるような声が聞こえましたが、振り返りはしませんでした。
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