寝そべりながら読書することは最上の贅沢である

 ばたん、ばたん。

 遠そうで近い場所で音は繰り返している。音が鳴るたびに冷たい風もこちらに向かって吹いてくる。

 ——風?

 疑問とともに、西宮は目を覚ました。目線の先には、紐がぶら下がっている照明。手元には、読みかけの幸田露伴の『五重塔』。

 寝そべりながら本を読んでいたせいか、畳の上で眠ってしまっていたようだ。時計を見ると、夜の八時を五分ほど過ぎている。本を読み始めたのは、七時ごろだったので一時間ほど寝ていたことになる。

 また、ばたんと音がした。

 六畳間を見渡す。玄関のドアが少しだけ開いていた。

 隙間風が吹くたびに、それが音を立てながら動くのだ。

「……変だな」

 盗られて困るものなどないが、西宮は部屋にいるときは鍵をかけるのを忘れない。買った本を小脇に抱えて帰宅した今日も確かに鍵をかけたはずだったのに。

 首をかしげながらも、再び閉めにいく。念のため、ドアの先から顔を出して外を確認したが誰もいなかった。落下防止の柵の向こうに夜の闇が見えるだけ。

 「今度こそちゃんとかけたぞ」と自分に言い聞かせて、西宮は内鍵をかけた。

 ——建付けが悪くなってるんだろうな。

 西宮が勤めている出版社の正社員であれば、勤め先の目と鼻の先の社員寮に住めるのだが、まだ非正規雇用である西宮は本郷・菊坂の安いアパートに下宿をしている。

 このアパートは本来なら四円ほどの家賃がかかるが、日当たりが悪いため二円と安くなっていると聞いている。だから、多少の安普請は仕方がないのかもしれないが。

 かけた鍵が何度も外れるのは、さすがに大家に相談するべきかもしれない。

 仕事のない日にでも、大家のところに相談に行こう、と一人頷いてから、再び畳の上に寝そべった。井草の香りが心地よい。

 コチ、コチと壁にかかった時計の秒針が時を刻む音が部屋の中に響く。

 ふう、と息を吐いた瞬間、視界の端で何かが落下した。

 押し入れの隣、備品の一つである二段の棚から本が落ちた。

「……これか」

 手に取った本は、あの『異物』だった。その日買った本は、まとめて棚の天板に置いたのだ。本来なら今日買った本を詰め込むはずの本棚は他の小説が詰め込まれており、整理をする必要があったためだ。その暇はまた別の機会になりそうだが。

 ——本が勝手に落ちた?

 地震が来たわけでもない。棚の天板をいじってみたが、傾いているわけでもない。

 床の上に丸めたチリ紙を置いてみたが、滑りはしなかった。床自体が斜面になっているわけでもないらしい。

 ——まあ、そういうこともあるよな。

「健康に悪いので、細かいことを気にしすぎない」ことは、西宮が生きるうえでの信条の一つだ。

——せっかくなら、読んでみるか。

「これは売れない」と、なかなか首を縦に振らなかった店主にせがんで手に入れた一冊だ。優先して読んでもいいかもしれない。

 途中まで読んだ『五重塔』と入れ替える形で、『異物』を開く。癖のある手書きの文字群が西宮を再び出迎えた。

「怪奇庫」で立ち読みしたときは、最初の頁までしか読んでいなかった。不穏な始まりはどんな展開を見せるのか。

 西宮は再び『異物』の頁を開いた。

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