第10章 倫敦の君
私は携帯をまた取り出して、調べ始めた。
「俳句について調べているの?」
「いや・・・由起夫さんはSNSとか、やっていました?」
「インスタをやってたわ」
なるほど。投稿しているか怪しいが、調べてみる価値はある。
「先生、誕生日はいつですか?」
「3月31日だけど・・・どうして」
インスタグラムを開く。小島由起夫の個人アカウントは、まだ削除されていなかった。数えるほどしか投稿がない。祈るような気持ちで、写真を見ていく。果たして、それはあった。五年前の4月1日午前3時。彼は新作スイーツ発売の投稿をあげていたのだ。私は歓喜の声をあげた。もちろん4月1日は、日本時間の4月1日だ。イギリスはそのとき、9時間前の3月31日午後6時だった。
私はその写真を先生に見せた。
「これは、クッキーかしら。あら、そっくりだわ。大学生の時、あの人が分けてくれたクッキーに」彼女は呟いた。
「先生、この、クッキーにかかっている白い砂糖は、」
「粉糖ね。一般的に粉砂糖とも言われるけど」
「いや、雪ですよ」
「え」先生は面食らった様子で、まじまじと私を見た。
「これは雪です」
「そ、それじゃ、名残雪って・・・」
「白い粉を雪に見立てたのではないでしょうか。粉糖をクッキーにまぶすことを、「雪を降らせる」と表現したんです、きっと」
「そしたら、『倫敦の君』は何?」何を指しているの、と先生は尋ねた。
「その答えもここに載っていましたよ」写真の下のハッシュタグを指さす。
「#new sweets」に続いて、「#cime dans la neige」と表示されていた。フランス語で「雪の中の梢」。おそらく、このクッキーの品名だろう。「梢」は「梢子」の梢。由起夫さんは、先生と初めて会ったときの思い出を、先生の名前を冠したお菓子にした。そしてそれが、由起夫さんにとっての「倫敦の君」だったのだ。何も深く考えることはなかった。解いてしまえば、ごく単純なことだ。
「貴方・・・」先生は、目頭を押さえて微笑んだ。
「その下のハッシュタグも見てみてください」私は画面を下にスワイプした。
「#my origin」マイ・オリジン。私の原点。
「これは、完全な推測ですけど」前置きして続ける。
「小島先生のご主人は、大学生の時、先生のためにお菓子を作って、食べてもらっていたのを、自分のスイーツ人生の原点だと考えていたのではないでしょうか。そしてそのことをお菓子に託して、サプライズプレゼントとして電話で真っ先に先生に伝えるつもりだった。ところが、肝心の時差をすっかり忘れていたのでしょう。イギリスでの3月31日は、日本での4月1日だった。4月1日は、ご存じエイプリルフールです。日付を間違えた上に、嘘だと言われることを危惧した由起夫さんは、そのことを隠すしかなかった。つまりこの句は、新作の菓子を先生との思い出に見立て、それに雪のような粉糖をかける情景を詠んだ俳句だったのです」
私はそう結論づけた。いくら考えても俳句の意味が読み解けないわけだ。これは万人に向けた作品ではなく、たった一人に捧げたものだった。先生は涙を拭い、
「・・・馬鹿ね。一言でもいいから、知らせてくれればいいのに。そんなこと、私は気にしないわよ。だって・・・だって・・・」
「夫婦ですもの・・・」彼女は声を上げて泣いた。どこかすがすがしい顔で。
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