第9章 擬人化

「何か分かった?」

「えーと、この「にぶらせる」ですが」該当するところに指を滑らせる。

「もしかしたら元々は違う字だったかも。というのは、私も俳句をメモ帳に作るときによくやりますけど、既にできた句に、何か付け足して別の句を作ったりするんですよ。言葉を言い換えたりして。それとは少し違いますが、話を聞く限り由起夫さんはシャイというか、恥ずかしがりの性格みたいなので、元々作っていた俳句が照れくさくて、何かの要素を付け加えた可能性もあるかなと」

「何かの要素・・・濁点とか?」

言われて、試しに「にぶらせる」の濁点を外してみる。

「倫敦の君にふらせる名残雪」

全体としてはまだよく分からないが、ふらせるが「降らせる」だとしたら、後半との繋がりはよくなる。「名残雪」を「倫敦の君」に降らせるという意味だろう。合っているという確証はないが、ひとまずこれで話を進めてみよう。

次に、どうして「名残雪」という季語にしたのか。先生の夫は春に亡くなったそうなので、時期としては合っている。同じ意味の季語に「雪の果て」や「忘れ雪」などがあるが、それらとの違いは、名残雪が名残惜しく降っている雪であるのに対して、「雪の果て」は最後の雪であることを強調していて、「忘れ雪」は春になったことを忘れて降っている雪であるということだ。いずれにせよ、微妙なニュアンスの差しかない。しかし、一見微々たる差に思えても、丹念な言葉選びの結果として、この表現が抽出された可能性もある。俳句の世界では一字の違いが命取りなのだ。

さて、「倫敦の君」には、少しだけ説明の付く解釈ができるかもしれない。小島先生は一度もロンドンに行ったことがない。これは事実だ。だとすると、「倫敦の君」は小島先生ではないことになる。では他の女性なのか。

・・・こう考えることはできないか。ロンドンにいたのは、小島先生ではなく、小島先生の分身のようなものだった。俳句には、擬人化という技法がある。人ではないものを、人であるかのようにたとえる比喩だ。

「由起夫さんは、いつも海外に行くとき、先生の写真とか、先生の持ち物を持っていったりしませんでしたか?」

写真なら、ロンドンに、いやどこにでも持って行ける。「倫敦の君」とは、妻の写真をあたかも妻自身であるかのように書いたものなのでは。

「いいえ。残念ながら持っていかなかったわ」先生はにべもなく否定した。

・・・駄目か。考えてみれば、写真に雪を降らせるというのも変な話だ。でも、推理は外れたけれど、なかなかいい線を行っている気がする。比喩か。もしかして、「名残雪」も比喩なんてことはないだろう―

「―まさか」

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