第7章 苦い思い出
まず、俳句の形式から考えることにする。
「これは有季定型の俳句ですね」
「有季定型?」先生は怪訝そうに言った。
「俳句は、ふつうその季節の季語を一つ詠み込むというルールがあるんですが、その型を破ったものも存在します。この句は季語が有るので有季。それから、五七五のリズムからあえて外した俳句もあって、自由律とか呼んだりしますが、この句の場合、五七五の型に収まっているので、定型です。つまり、この有季定型は俳句の最もスタンダードな形と捉えてもらっても、差し支えないでしょう」
「詳しいのね」先生は少し驚いていた。
「母方の叔父に習ったので」
「ふうん。そういえば、貴方のお母様って」
「荒井竜胆(あらいりんどう)。数年前に、謎の失踪を遂げた、推理小説家―なんて、世間では言われていますけどね」私は肩をすくめた。
「でも、私にとっては普通の母親でしたよ。失踪した当時も、何と言うこともない会話をして、いつもと特に変わらない朝でした。あの後記者にいろいろ聞かれましたけど。何か変わった様子はなかったかとか。新聞とかワイドショーで連日騒がれて。結局母は見つからなかったけど、「有名作家失踪の真実」みたいなセンセーショナルな記事に、不倫やら金銭トラブルやらあること無いこと書かれて、私は参ってしまいました」
「真実」を求めて、沢山の「探偵」が私の前に現れた。ずけずけと心に土足で入ってきては、身も蓋もない推理を吐き散らかして、私たち家族を辟易させた。でもそのとき私は薄々気づいていたのだ。私が勝手に結成した「探偵団」も、「推理」と称して論理のこじつけや、下世話なゴシップを作り出していただけだったことに。記者がやっていることと同じだったのだ、私のやっていたことは。その日から、私は探偵団を辞めた。少なくとも、現実世界に私のようなまがい物の探偵は、いらない。
「俳句の話に戻ります」
母を失って、自分の好きだったことまで失った私に、叔父は俳句を教えてくれた。流れ星が消えるまでに詠める、世界一短い定型詩である俳句を。
「この句の季語は名残雪で、春の季語です。季語としては、春になってから降る季節外れの雪という意味があります」
最初は、私も俳句なんて興味は無かった。叔父は、「実は姉さん(母親のことだ)も俳句を作っていたんだよ」と言って、私にあるノートを見せてくれた。
「冬薔薇のように私を愛せるの」
ノートの最初のページに書いてあった句だ。普段の母とは違う、切実で官能的な句。私はそのとき、知っていたはずの母の知らない一面に出会った気がした。それから私は母の俳句手帳を読み進めながら、叔父に俳句を教わった。
世界一短い定型詩であるからこそ、限られた音数の中にいかにして情報を切り詰め、読者の頭の中にその光景を立ち上がらせることができるかが俳句の肝だと思う。私にとって俳句を作ることは推理することと真逆の作業だ。推理は少ない情報から論理を組み立て、自身には知りえなかった深い真実を導き出す行為だが、俳句の場合、まず描きたい大きな情景があり、そこからその俳句にとって必要でない情報をそぎ落とす。省略したり、言葉を言い換えたりして、十七音という枠の中に、選び抜かれた言葉だけを注ぎ込むわけだ。だからこそ、俳句と推理には似ているところもある。誰かの俳句を読んでいるとき、私は魅力的な謎を解いている気分になる。どうしてこの季語を使ったのか、季語との取り合わせになぜこの言葉を選んだのか、語順や比喩によって生まれる効果は何か。似ているとはいえど、俳句にはたどりつくべき一つの真実は存在せず、読み手それぞれが作品から意味をくみ取り、情景を想像する。そのことが楽しくもあり、不思議でもあった。
「俳句には最初の五音、つまり上五で意味の切れる初句切れや、次の中七で意味が切れる二句切れがありますが、これは下五まで意味の切れ目のない句切れなしだと思います。名残雪という体言で終わっているのも特徴的ですね」
まさかこんなところで俳句の知識が生きるとは思わなかった。
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