第5章 白い追憶

「では、話してくれますか?」

気を取り直して言う。

「そうね、あの人と出会ったのは、大学生の冬のことだったわ―」

その日は朝からはらはらと雪が舞い、しんしんと寒さが降りた地上は雪の箱庭のようだった。

梢子は大学に向かうためにバスに揺られていた。彼女は子どもの頃から教師になることを夢見ていて、大学も教育系の学部に進学し、先生になるために教職課程を選択。毎日必死になって勉強していた。だから、無理がたたって疲れていたのかもしれない。彼女はバスを降りるとき、定期券を鞄から取り出して機器にかざしたが、その拍子に財布を落としてしまった。落としたことに気づかずに、バスを降りて歩き出した梢子を一人の男が追いかけた。

「おおい、君」

梢子が振り返ると、その男は

「財布、落としましたよ」

と梢子の財布を差し出した。財布をもらった梢子は、「ありがとうございます」と礼を言って、また歩き出そうとした。

男もバスの方に足を向けたが、「あ」と小さく叫んだ。バスは走り去ってしまった。

「ごめんなさい、わたしのせいで・・・」彼女は立ち尽くす男に謝った。

「いや、運転手に伝えておかなかった僕も悪いよ。それより、君、大丈夫かい?顔色が悪いけど」

その日、梢子は朝食を抜いていた。朝起きて作るのが面倒だし、お金がないので、節約のためというのもある。そういう話を、気づけば目の前の男に話していた。優しい雰囲気のひとだったし、誰かに話を聞いてほしかったのかもしれない。話を聞いた男は、

「じゃあ、暇なときでいいからうちの店においでよ。クッキーくらいなら、分けてあげられるから」

ふわりと笑って、チラシを渡してくれた。その人が、梢子の夫の由起夫だった。

由起夫は、梢子より二つ年上で、駅前のパティスリーで働いていた。夢はパティシエとして独り立ちし、自分の店を持って、世界中の人に自分の作ったスイーツを届けることだ。大学の授業の後、パティスリーを訪れた梢子に、由起夫は照れくさそうな顔で語ってくれた。その日を境に梢子は店に通うようになる。由起夫は優しい性格だったが、スイーツに対してはとてつもないこだわりと情熱を持っていた。梢子はそんな由起夫に次第に引かれていき、二人は交際を始めた。

そしていつしか年はたち、二人は結婚。梢子は念願叶って教員採用試験に合格し、ずっと憧れていた教師の職を手に入れた。由起夫はめきめきと技術をつけ、洋菓子業界に頭角を現し、気鋭のパティシエとして注目されるまでになった。子どももできて、二人は順風満帆な結婚生活を送っていた。

「貴方を教えていたのも、ちょうどその時期。あの頃はよかったわね」

ところが、その頃から由起夫は仕事で日本全国に行くようになり、家を空けることが多くなったという。

「帰ってきても仕事の話題しか話さないのよ。有名になればなるほど、家からは遠のいていく。悲しい話ね」

そして今から1年ほど前の冬。パティシエとして絶頂期を迎えていた由起夫を、突然の病が襲った。

「主人は海外の仕事先で倒れたの」

「・・・海外のどこか、わかりますか?」

「パリよ。主人の店がそこにあって、いつも春になるとそこに行っていたわ。たしか、東京にも同じような店があったのじゃなかったかしら」

精密検査を受けた結果、由起夫の病名はがんだった。がんはもう手遅れになるくらい彼の体をむしばんでいて、余命幾ばくも無い、と医師から告げられた。

その後、由起夫は日本の病院に入院し、梢子も付き添うことになった。

「しばらくぶりに、あの人と一緒に長い時間を過ごしたわ。長いと言っても、入院して少しした春のはじめに、あの人は逝ってしまったけれど」

由起夫の店は、仲間のパティシエが引き継ぐところもあったが、大半は閉めてしまったという。

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