第3章 背表紙の暗号

「・・・何故ですか」

「私はロンドンに行ったことがないのに、『倫敦の君』と書いてあるじゃない。きっと、主人は現地で、愛人でも作って―」

「待ってください」

 耐えきれなくなって、私は口を挟んでしまった。

「本当に先生はロンドンに行ったことがないのですか?」

先生は無言でうなずいた。

「何かの記憶違いで、昔に訪れたことがあったのなら、誤解だとしたら」

「それはありえないわ」

しかし無情にも、私がすがった可能性はばさりと切り捨てられた。

「そもそも私は海外に行ったことすらないもの。飛行機に乗るのが怖いから」

図書室には再び沈黙が訪れた。

 小学校の教師をしている妻と、海外を仕事で飛び回る夫。その夫が死の間際に作った俳句は長年連れ添ってきた妻に向けられたものではなく、他の女性のことを詠んだ句だった。もしそうだとしたら、あまりに酷だ。彼女に、小島先生にとって、あまりに酷な真実だ。

「ごめんね、コアラちゃん」

無理やり微笑みを作って、先生は謝った。

「八つ当たりみたいなことをして。そんなことをしても、何にもならないのに。主人は戻ってこないのに」

そんな顔をしないでほしい。先生はそんな愛想笑いをする人ではなかった。いや、それとも私が見ないようにしていただけだったのか。

「もう遅いでしょう。私、帰るわね。相楽さんによろしく伝えておいて」

先生は手早く荷物をまとめて、それから図書室を出て行った。図書室の出入り口をくぐるとき、彼女の唇から言葉が漏れた。

「私のことなんか、忘れちゃったのかも」

掛ける言葉を見つけられない。先生が階段を降りていく音が聞こえなくなっても、私は呆然と立ち尽くしていた。ふと、彼女が置いていった、十冊の本に目をやる。

『刺青』

『倚りかからず』

『うたかたの記』

『こころ』

『ヘンゼルとグレーテル』

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』

『石川啄木全集 2』

『ティファニーで朝食を』

『異邦人』

『ルンルンを買っておうちに帰ろう』

 おかしい。改めてみると奇妙な並びだ。寄贈する本なのに、いくらなんでも一貫性がなさすぎる。

「あ」

しばらくそれらを眺めたあとで、あるちょっとしたことに気づき、私は再び呆然とした。

先生を呼び戻さなければ。もう間に合わないかもしれないけど。私は図書室の床を蹴った。

階段を転げ落ちるように駆け下り校舎の裏手の駐車場まで走る。走る。先生は今まさに車のドアを開けて運転席に乗り込もうとしていた。

「先生!待ってください!先生、小島梢子先生!」

私は走りながら叫んだ。

「あら・・・」

彼女は動きを止め、目を丸くしてこちらを見た。私は息を整え、彼女に向かってまっすぐ

に視線を投げかけた。

「どうしたの?忘れ物でもしたかしら」

「忘れてなんか、なかったと思います。ご主人は、先生のこと」

「え?」

ちょっと付いてきてください、と言って私は先生を図書室に連れ戻した。

開口一番、私はちょっとした謎解きを披露した。

「ご主人が寄贈された本には、先生へのメッセージが隠されていました。それぞれの書名の、一文字目を繋げて読んでみてください」

それぞれの頭文字は、「刺」「倚」「う」「こ」「へ」「ア」「石」「テ」「異」「ル」。

「しようこへあいしている・・・」

梢子へ、愛している。

「そんな・・・」

勿論、梢子は小島先生の下の名前だ。

「先生は、そもそもどうしてご主人の蔵書を寄贈されようと思ったのですか?」

「・・・主人が病院に持ち込んだものなのよ、この本たちは」

彼女は本の背表紙を撫でた。

「主人が亡くなって、病院に持ち込んだ本も家に戻したの。でもこの本を見ると、病気の主人を思い出してしまって、つらくなるから、思い切って寄贈しようと決めた。でもこの暗号には気づかなかったわ。たしかに不思議だったけどね。病院に持っていった本のジャンルはバラバラだったし、やけに本の題名にこだわるし。だけど、そういうことだったのね」

小島先生の顔に、表情が戻ってきた。

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