第2章 謎めいた俳句

彼女が持ってきた亡夫の蔵書は十冊だった。それを紙袋から一つずつ取り出して、あいている書棚にならべていく。三冊目の本を手渡されたとき、頁の隙間から何かがこぼれ落ちた。ひらひらと宙を舞うそれは、紙の切れ端のようだ。腰をかがめて拾う。紙片には震える文字で短い文章が書かれていた。

「倫敦の君にぶらせる名残雪」

「これは―」

何でしょう、と聞くのもおかしい気がして、私は言葉を飲み込んだ。何だと言われても短文と答えるより他にないだろう。

「乱れているけど、主人の字だわ」彼女はしげしげとそれを見ていた。

「俳句かしら」

言われてみれば、五・七・五音で俳句になっている。

「これは、ロンドンとよめばいい?」句の冒頭を指さして尋ねる。

「でしょうかね」

「ふうん。でも不思議ね」首をかしげて、

「私は一度もロンドンに行ったことがないはずなのに」

瞬間。窓の隙間から入ってきた一陣の風が、本を荒々しくめくり、バタバタバタと音をならした。

「それは―不思議ですね」

私は応じた。どういうことなのだろう。「君」は小島先生のことを指しているのではないのか。

もう一度、その走り書きをよく見てみる。ルーズリーフを切り取った紙片に、青いボールペンで文字が書かれていた。

「先生のご主人は、俳句がお好きだったのですか?」

「そうねえ、趣味でよく作っていたわ。私も真似て作ってみたことがあるけど、センスがないって笑われたの。ひどいでしょう?自分だって、どこかの賞に入選したこともないくせに」

彼女はどこかうれしそうに言って微笑んだ。些細な会話だけれど、きっと、大切な思い出なのだろう。

「ほんとに、勝手な人でしたよ。仕事で世界を飛び回るから、家庭をちっとも顧みてくれないし、口を開けば仕事の話ばかり。挙げ句の果てに、急な病気で私より早くにぽっくり逝ってしまったわ。子どもたちを残して」

悲しげな目をした小島先生は、もうあのときの先生ではなかった。生徒と一緒になって合唱を楽しみ、バレンタインには他の先生には内緒よと言ってお菓子を分けてくれ、テストを「楽しいから」という理由で自由演奏にしてしまったあのときの先生。先生は私に変わったと言ったけれど、先生だって変わった。8年は人を変えるには十分な時間だ。

そのまま、先生は黙ってそれを見ていたが、

「これは、主人が他の女性に宛てた俳句なのね」

大きな溜息をつき、悲壮とも言える声で、ぽつりと結論づけた。

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