第1章 図書室の再会
晩冬の書架に詩集を差し込むと、どこからかヴァイオリンの音が聞こえた。私は書架の間をゆっくりと通り抜け、斜めに照射された陽光と、その中にたたずむ一人の女を見た。女は深い紺色の服を着て、胸の辺りまで届く長い髪をしている。淡い光に包まれて、女は本の頁を繰っていた。近づくと、身に纏う香水が、古本の匂いに混じって鼻腔をくすぐる。
「ヴィヴァルディですか」
声を掛けてみる。彼女は少し顔を上げて、こちらを見据えた。二人の間にある冬の空気が、一瞬揺らいだような感じがした。たぶん、気のせいだろう。彼女は私を見ると目を見開いたが、すぐに元の、どこかうつろな表情に戻った。大きく見開かれた目の中には、微小な私の像が映っていた。
「あら、貴方・・・」
読んでいた本をそっと閉じて、貸し出しカウンターに置く。その一挙手一投足が洗練されていて気品を感じさせた。
「ごめんなさいね、音が大きすぎたかしら」
ヴァイオリンを奏でていたのは彼女の携帯のようだ。おもむろに懐から取り出して、操作する。無機質な電子音が図書室の中に響いた。
「いえ、何かご用ですか?」
私は尋ねた。格好や立ち振る舞いからして、この女性はどうみても図書室の利用者ではなさそうだ。
「まあ」
女性は口に手を当てて、思い出したかのように、
「私、一昨日メールを差し上げた小島です。先日主人が他界して・・・今日は主人の蔵書をこの学校に寄贈しに来たのよ。ここが主人の母校だと聞いたから」
私の出で立ちを見て、女性は付け加えた。
「司書の相楽さんに聞けば、分かると思うけど」
「相楽であれば―」
「待って」小島と名乗った女性は私に顔を近づけた。
「やっぱり、そうだわ。貴方、コアラちゃんでしょう」
驚いた。確かに、私は子どもの頃コアラという渾名で呼ばれていた。顔がコアラに似ているという、ごく単純な理由で。でもどうしてこの人が知っているのだろう。
「・・・はい、そうですけど」
「やっぱりね。あの頃ずいぶん感じが変わったけれど、声でわかったわ。覚えていない?私よ。『ことり先生』よ」
一瞬の後、8年前の映像が、くっきりと脳裡に形を結ぶ。窓から差し込む朝日に満ちあふれた音楽室。グランドピアノの黒く艶めいた天板。記憶の中の先生は若かった。初対面の時、「小島」を「小鳥」と呼び間違えたので、私と会うときは冗談めかして「ことり先生」と自称していた。それにしても眼前の先生は、ずいぶんと老けている。口には出さないけれど。
「ああ」
こういうとき、どんな声を出せばいいのか、分からなかった。奇遇にも再会したのだから、うれしそうに振る舞えばいいのに、私は不器用な女だ。
「貴方、変わったわね、それもかなり」彼女は昔を懐かしむように、目を細めた。
「昔はもっとやんちゃで、いわゆる悪童と呼ばれるような子だったのに」彼女は「悪童」のところを力強く発音した。
「昔のことはいいですよ」
思ったよりも強い声が出て、自分でもびっくりする。
「それより、先生の寄贈される本、私で良ければお預かりしましょうか。相楽は―今、急用で出かけておりまして、しばらく戻らないと思います。帰ったら伝えておきますよ」
「そう」彼女は何か言いたげな様子だったが、
「業務の方はいいの?」と確認した。
私は図書室の中を振り返った。がらんとした室内には誰もおらず、空調の音が時折耳に入るくらいで静まりかえっている。肩をすくめて言った。
「見ての通り、閑古鳥が鳴いているので」
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