誰がために猫は鳴く

那智 風太郎

プロローグ

朝の院内パトロール 1


 吾輩も猫である。

 名前は、ある、一応。

 ゴクラクという。


 ただ人間がそう呼んでいるだけで吾輩がその名を認めているわけではない。

 むろん人ごときにそんな脳天気な名前を付けられては癪に障るし、猫もすたるというものだが、そもそも吾輩が軽々しく人間どもの言葉をしゃべるわけにもいかないので、やはり黙っている。 


 沈黙は金なり。


 いや、金や小判など欲しくはないが、おかしなことをしでかして、お気に入りのキャットフードと缶詰と寝床がなくなるのは少々困る。


 まあ、とはいえ別段、名前などどうでも良い。

 ゴクラクと呼ばれ始めて三年余り。

 もう慣れたし、人間なんぞには呼びたいように呼ばせておくのだ。


 三年前、吾輩はいわゆる捨て猫であったようだ。

 記憶はない。

 ただタカトシが酒に酔うと決まって吾輩の前にあぐら座りをしてそのくだり顛末てんまつを振り返るものだから、そのうちに覚えてしまった。

 それによると吾輩は小さな段ボール箱に入れられて、戸口に置き去りにされていたのだという。

 箱の中には稚拙な筆で「助けてあげて」と書かれた紙片。

 それからいまにも死にそうな吾輩とすでに息絶えていた三匹の兄弟たちが入っていた。

 タカトシは憤慨したようだが、仕事柄見捨てるわけにもいかず、息も絶え絶えな吾輩に治療を施したのだという。

 吾輩は極度の栄養失調と悪い風邪に罹っていて、その後三日三晩生死の境を彷徨さまよったらしい。

 けれど奇跡的に持ち直した。

 我ながら強運の持ち主である。

 捨てられたところが動物病院というところもツイていた。

 もちろん、そこは恩に着ている。

 ただ、タカトシは酔い加減によっては相当に恩着せがましくその話をするものだから、もういい加減うんざりして素直に感激することなどとうていできない。

 だいたいあやつは吾輩にいまさら何度もそんな話をしてどうするつもりなのか。

 猫が感動して恩返しでもするとでも考えているのだろうか。

 バカバカしいにもほどがあるというものだ。


 ただ三年も生きれば分かる。

 人間とはそういう傲慢でおろかな生き物なのだ。

 だからそんなとき吾輩はそっとタカトシに哀れみの目を向け、寛容の心を持って許してやる。

 あと、吾輩は時々出窓に上がり駐車場脇のソメイヨシノの若木にも目を向ける。

 そこは埋められて小さな骨屑となった兄弟たちがいる場所。


 心配するな。

 お前たちの分まで吾輩が生きてやるから。

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