第33話 取り敢えず、郷を出て来ましたが!
今となっては、随分、昔の事のように思える。
ある日、忠明の郷に一人の
相撲節会とは、旧暦の七月頃に宮中で催された
この時代には都の周辺だけでは優秀な相撲人が集まらないので、わざわざ
早速、国司の関係者や、その下で働く若者達が集められた。
季節は丁度、田植えが終わった頃で、若者らの顔も随分と日焼けしている。
誰一人として色白な者がいないのが、彼らの生い立ちを物語っているようだった。
そして残念ながら、理明(忠明の改名前の名)もその中の一人である。
だが面白いことに、この部領使も負けず劣らず日焼けしており、浅黒い肌に薄っすらと汗を滲ませながら、よく通る声で若者達に語り始めた。
「そなたらの中で、都で
……わしも、
この人は、元は何の官位も持たない下級貴族の息子だったらしい。
だが、子供の頃から無類の弓好きだったので、鍛錬を怠らなかったそうである。
とにかく、普段の練習量からして半端ではなかった。
毎日、決まった時間を捻出し、練習に費やすのなら分かるが、この男の場合は夜中までしつこく練習していたらしい。
照明などは、まだ充分に発達していなかった時代のことだ。当然ながら無理がある。
そこで、家の廊下の端板や建物の板を困らない程度に取り出すと、それを燃やしてまで夜通し弓を射た。
よく考えると、これは結構、物騒な話である。
夜、暗がりの中、女人の処に通う貴族たちが外を歩いていると、
ヒョー とばかり、
これは、ちょっとしたホラースポットである。
案の定、周辺の人々の間では有名になってしまった。
そして、いつの間にか、彼自身も弓を志す者の間で一目置かれる存在になったのである。
すると不思議なもので、彼の
しかも、そこで好成績を収めた結果、とうとう衛門府の官人にまで取り立てられたのである。
ちなみに、"賭弓"も朝廷の年中行事の一つだ。これは天皇の御前で、衛府の関係者や弓の達者な若者が腕前を披露する行事である。
「よいか、
そう言うと、部領使の男はニコリと笑った。
男前というには、ちょっとゴツイ顔を綻ばせると、何だかオッサン顔も可愛く見えてくるから不思議である。
そして理明は、その男の口車に乗せられるように故郷を出たのだ。
官位も何の後ろ盾もない無位無官の若者でも、体格が良く、健康で体力があれば、相撲節会に出場し、……運が良ければ、衛府に配属され正職員になれるかもしれない。
いずれにしろ、理明のような地方の豪族の庶子などでは先が知れている。
むしろ広い都に出て勝負してみたい。……そんな夢のような希望を抱いて、フラフラと都に上った。
考えてみると、その頃の理明は、ただ漠然とした憧れだけで都にやって来た、やたらに体格の良い子供だったのかもしれない。
そして、それは理明が都に来てから、まだ間もない時のことであった。
いよいよ雨の季節も終わり、初夏の日差しがまぶしく突き刺さるような晴天の日のことである。
理明は、京の夏の蒸し暑さに嫌気がさし、わざわざ河原にまで出かけると、ザブリと水浴びをした。
都に来てはみたが、……まだ何もしてない。
力仕事や、頭数のいる雑用しか任されていないのだ。
本当に、今年も相撲節のような、大きなイベントが催されるのだろうか。
……その点からして心配だった。
なぜなら、相撲節のような祝事系の行事は、日照りや流行病が起こると、開催されなくなる可能性があるからだ。
理明はそんな不安な気持ちを振り払うように、川の少し深い場所に踏み込むと、両掌を前で打ち合わせ
そして水の中で、そろそろと川底の砂を踏みしめながら
少しでも体力が落ちないように、……そんな配慮からだった。
気が付くと、何やら、もう少し上流の方で騒ぐ連中がいる。
いかにも都の若者達が
十人程の若者が、
"犢鼻褌"とは、今で言うところの"
生地も白麻が使われており、前の方が幅広く、下腹の辺りまで覆う形になっていたので、まだ今のように、まわしを取って投げるような技は発達していなかったのではなかろうか。
ちなみに、"犢鼻"とは"子牛の鼻"の意味らしい。褌の形が牛の鼻面を連想させるから、こんな名前が付けられたのではないか? とも言われている。
それにしても、こんなヤル気満々な
そこで、スゴスゴと引き返そうとする。
「おう、
残念なことに発見されてしまった。
「フハハ、……なるほど聳えておるのう! 」
酔っ払い達が、こちらを見てゲラゲラ笑う声が聞こえる。
『ふん! ……誰が牛じゃと? 』
ムッとして、振り返ってしまった。
すると、
他の者達は、犢鼻褌
挿頭とは、当時の人々が神事に際して髪や冠に挿して飾った草花のことで、生花以外にも造花なども使ったらしい。
そして、この男の髪にも
狩衣に、白い花の挿頭、……これでは、まるで相撲節会の礼装だ。
さては、この御仁、……形から入るタイプの"相撲オタク"なのか?
と、何となく笑ってしまう。
だが、想像してみよう!
そこそこ鍛えている貴公子が、上半身を惜しげもなく
理明のような"田舎人"でなくとも見惚れてしまうお
ホォー と感心していると、つい目が合ってしまった。
「おう! そこの
はて? "健児"とは誰のことだろうか。
そう思って、理明は思わず後ろを振り返ったが、当然、そこには誰もいない。
どうも、理明のことを呼んでいるようだ。
どうやら、いつの間にか、理明は厄介事に巻き込まれたようである。
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