第32話  南家大暴走(2)

『今昔物語』 と同様に、平安から鎌倉時代にかけての説話を集めた 『宇治拾遺物語うじしゅういものがたり』の中 では、藤原保輔やすすけがとんでもない"盗人"であったかのように描かれている。


 藤原の人々が、まるで政治を独占しているかのように駆け引きしていた時代、その裏で権力闘争から落ち目になったからは、まるで"危険人物"が生まれたかのように書かれているのだ。


 では、どうして同じ藤原氏なのに、北家の人達だけが幅を利かせ、南家の人々は、まるで置き去りにされたかのように悪名を残すことになったのだろうか。



 日本史の教科書で誰もが知っているだろうが、藤原氏が歴史の舞台に初めて現れるのは、"大化の改新"の立役者になった中臣鎌足なかとみのかまたり(後の藤原鎌足)からである。


 だが、この時代の朝廷では、まだそれ程、藤原氏の力は大きくなかった。


 それは藤原氏以外にも、沢山の有力豪族が存在していたからだ。


 しかし、天皇の後継者争いや、都の遷都等、政治的な問題に関与するうちに徐々に力をつけた。そしてまた、他の豪族を蹴落としながら、上手く天皇家とのを結ぶことで政治の中枢に根を下ろすことになったのである。


 ちなみに藤原南家、北家という呼び方は、元をただせば、藤原鎌足の子である藤原不比等ふひとのどのかを示すものである。


 例えば、は長男である武智麻呂たけちまろの家が、弟である房前ふささきの家の南にあったからそう呼ばれるようになったもので、逆に房前の子孫はと呼ばれることになった。


 後の二人のは、宇合うまかい式部卿しきぶきょうだったので式家しきけ麻呂まろ左京大夫さきょうだいぶだったので京家きょうけと呼ばれることになる。


 何れにしろ、昔の人々は住んでいる場所や、就いている役職で呼び合うことで、同じ氏を名乗る"古い親戚"を互いに区別しのだろう。


 この藤原四家の子孫達は、その後も、時代の波に揉まれながらも歴史の舞台に度々登場してくる。


 ごくには、長兄である武智麻呂(南家)の子孫が活躍していたが、病気や災害、天皇の皇位継承権を巡る争い等で勢力を削られてしまう。


 だが不思議なもので、分家したり、兄弟でそれぞれ派閥を作って競うと、同じ藤原の姓を名乗っていても、にされて何となく生き残っていけるようだ。


 南家が朝廷の中枢から外された頃には、やや出遅れ感があった房前の子孫(北家)がタイミング良く活躍し始めるのである。


 平安京に遷都されて落ち着いた頃であるが、まず藤原冬嗣ふゆつぐが、皇太子時代の嵯峨さが天皇に仕える仕事をしていた関係で信任を得て、それを機に急速に昇進していくことになった。


 さらに嵯峨天皇の息子である仁明にんみょう天皇と、冬嗣の娘である順子のりこの間に生まれた道康みちやす親王が即位して"文徳もんとく天皇"になる。


 それからは冬嗣の息子・良房よしふさが"清和せいわ天皇"、そして、その息子(但し養子だが)基経もとつねが"朱雀すざく天皇"の外祖父になり、これが藤原北家摂関政治の全盛期を生み出す契機となった。


 だからといって、北家の藤原氏の人々が途絶えてしまったわけではない。


 例えば、朱雀天皇がまだ皇太子だった時に東宮学士とうぐうがくし(皇太子付きの教育官)として仕え、それ以来、朱雀・村上天皇時代の政治を支えることになった藤原元方もとかたなどは、だった。


 元方の娘・祐姫も村上天皇の更衣こうい(天皇に仕える女官としては立場が低い方ではないかと思うが? ) となり、第一皇子・広平ひろひら親王を生んだ。そしてそれが功を奏したのか、元方も大納言だいなごんの位まで上っている。


 だが残念なことに、当時、勢いがあった藤原北家の公卿達に気圧けおされ、次の天皇の座は北家の藤原師輔もろすけの娘・安子(中宮)が生んだ第二皇子・憲平のりひら親王つまり"冷泉れいぜい天皇"に渡ってしまった。


  当時の状況を詳しく書いている『 大鏡おおかがみ 』 の記述から考えても、で冷泉天皇をなら、わざわざなのに即位させる必要があったのか?

……と、突っ込みたくなるのだが!


 とにかく、元方にとっては、ショックな事件だったのではなかろうか。


 そして、その無念から元方は死後に怨霊おんりょうとなり、師輔や冷泉天皇、さらにはその子孫まで祟ったと噂されたそうである。


 現代人の我々にとっては、とんだ言掛いいがかりにしか思えない話だ。


 だが、当の南家の人達にとっては、単なる風評被害程度では済まなかったのだろう。


 ドンドンと朝廷からの扱いが悪くなっていくのだから。


 そして、そんな焦りが、保輔の心を腐敗させてしまったのかもしれない。


 何故なら、彼も村上天皇時代には大納言まで勤めた"藤原元方"のだからだ。



 また、保輔には男兄弟が三人いて、その中の一人に、和泉式部いずみしきぶ(『和泉式部日記』で著名)の夫として有名な藤原保昌やすまさがいる。


 保昌も、保輔と同様に父・藤原致忠むねただの息子だが、保昌の母は出自が分かっているが、保輔は詳しく分からない。その為だろうか保昌の方が出世している。


 保昌は国司まで務めた人なので官位も決して低くはなかったが、北家の藤原道長・頼通父子の家司けいし(家内での仕事全般を取り仕切る役職)を務めている時期もあった。


 何だかんだと言いながら、この頃になると、南家は北家よりに扱われているようだ。


 そして、いよいよ円融えんゆう天皇の時代になると、おそらく南家の娘は、天皇家と姻戚関係を結べるのではなかろうか。



 とにかく、名門・藤原氏は長い年月の間にドンドン増え、そして何度も仲間割れしながら分裂を繰り返し、その結果、一握りの人達しか政治の中枢で活躍できなくなってしまったのだろう。




 そして再び、話は戻る。


 夏の夕暮れ時に、一人の男が二条通りをトボトボと歩いていた。


 怪我をしているのか、苦しそうに足を引き摺っている。


 それは、殺されたはずの例の物売ものうりだった。


 最後まで止めを刺されずに穴に放り込まれたので、命からがら逃げ出してきたのだ。


 ……先に進めば"東三条邸"、そして御所へと大きなお屋敷が続いている。もしかして誰かが気付いて助けてくれるかもしれない。


 そう思って必死に逃げてきた。


 だが、無常である。


 やっと二条通りの人通りが多くなった辺りで、男はしまった。


 道にバタリと倒れ伏した男の姿に、最初、通行人達が集まってきたが、それも暫くすると遠巻きになり、やがて無視され放置される。


 だが、そのままにしておくわけにもいかず、すぐ側の屋敷の者が物売の死体を片づけ、そして検非違使庁に知らせたのだった。



 実を言うと、このところ物売が妙な場所で死んでいたり、突然、失踪する事件が続いている。


 二条の辺りにあるに入って、それっきり帰って来ない。


 ……そんな妙な噂が流れているのだ。



 そこで、少し離れた場所ではあるが、保輔の屋敷が疑われた。


 保輔という男は、最近、すこぶる評判が悪い。


 盗人のように物売から品物を巻き上げ、金を支払わない。


……とか、良家の生まれなのにだとか、いろいろと噂されている。


 だが、兵衛尉まで務めていた保輔を、検非違使庁では捜査できなかった。


 同じ武官でも、やはり触れることのできない上層部の人間だったからだ。




 次の日の午後、忠明が使庁に行くと、何やらザワついている。


 何か起こったのか? と為信に尋ねてみた。



「昨夜、東三条様の邸の側で、物売が息絶えておったそうじゃ」


「はぁ、……もしや? 」


「そうじゃ、また、太刀で斬られておった」


「……」


「皆が、前兵衛尉さきのひょうえのじょう様の仕業ではないかと騒いでおる」



 その言葉に、ふと、忠明はある日のことを思い出したのである。




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