第29話  聳子と聳丸(1)


 あれから、五百女に和歌を作るように言われたものの、忠明は相変わらず忙しさにかまけて歌を詠んでいなかった。


 そうしているうちに、いよいよ年が明け、そしてあっという間に桜の季節も終わり、とうとう山吹やまぶきの花が咲く頃になったのである。


 桜ほどの華やかさはないが、山吹も、小さいながら可憐な黄色い花を枝一杯に咲かせるのだ。


 だが、今年の忠明は、去年とは比べものならない程に忙しくて、なかなか定信邸に出向けなくなっていた。


 五月になれば、検非違使庁の仕事の中では一番注目を集める"着鈦政ちゃくだのまつりごと"という行事があるからだ。


 今までは、下っ端として、囚人の護送にだけ気を配っていたが、いよいよ立場的にも看督長らしい重要な仕事を任せられるかもしれない、……そんな風に思って緊張していた。


 "着鈦政"とは、毎年の五月と十二月に、それぞれ獄に繋がれている未決囚を引き出し、その罪状に従って刑を定め、鉄のかせを付ける儀式である。


 またそれは、平安京にある"いち"において、多くの人々に見せしめるかのように行われていた。


 これは検非違使庁の威信を示すと同時に、人々にに働きかける目的があったのではないかと思われる。


 看督長ともなると、囚人の護送や、枷を付けるための補助役をしたり、市に集まる見物人達の整理と、いろいろな雑用をさせられることになるからだ。


 それでも、いよいよ仕事が多忙になる前の貴重な時を利用して、忠明は定信邸に出かけることにした。


 定信が屋敷を留守にするので、宿直とのい(宿泊して警戒すること)を頼まれたからだ。


 季節も良くなり、過ごしやすくなったので、定信は鞍馬山の麓に住むの僧侶に誘われ、家を空けることになったそうである。



 その日、若竹丸は宿直の為の荷物を持って、先に定信邸を訪ねていた。


 忠明は仕事帰りに寄ることになっている。


 一通り用事を済ますと、若竹丸は萌黄もえぎをつれて、離れに連なる渡り廊下に腰を掛け休みを取った。


 この辺りの庭は、普段から人目に付かない為に人手が入っておらず、腰の高さまで草が生えたままになっている。


 若竹丸は、徐に懐から紙で包んだを取り出すと萌黄に渡し、そして自分でもそれをくわえた。


「何じゃ、餅か? 」


 ちょっと残念そうに萌黄が呟く。


「要らんなら、わしが喰うぞ! 」


 不機嫌そうに若竹丸が言い返した。


 余りに無造作な渡し方なので、に仕える萌黄には受け入れがたいのだ。困ったように掌に餅を載せると、日の光に透かして見ている。


それにしても、この慌しい折に宿直なさるとは、看督様は真実まめなお方じゃ」


「……いや、もっともなことであろう! 」


 そう言うと、萌黄は若竹丸をちょっと睨んだ。


「姫君がお独りではあやういであろうが」


 確かに、この屋敷は広さの割に使用人が少なく思える。定信が現役でなくとも、男が二名と女は萌黄を合わせて三名で廻しているのだ。おかげで庭まで掃除が行き届かず、離れの周りの草などは伸び放題である。


「……危ういなどと、我らは御上おかみに仕え奉る身ぞ! ……いとまなどないのじゃ」


驕慢えらそうじゃな、慌しいのは主様ぬしさまだけであろう? 」


 萌黄が頬を膨らませた。


「着鈦の日が控えておる。看督様はそれで慌しいのじゃ! 」


「あぁ、あれのことか、……」


 先程とはうって変わって、萌黄はつまらなそうに合槌あいづちを打つ。


 明るい春の陽光に照らされて、丈の伸びきった草々がキラキラと輝いている。


「あの様なもの、気味が悪うて心付きせん気に入らないわ! 」



 記録で判るレベルでしかないが、着鈦政は、わざわざ未決の囚人を獄から引っ立てて、その罪状に従って枷を着けるものだ。


 確かに、使庁の武力を知ら示すことはできたとしても、市井の人々の印象は余り良くなかったかもしれない。それでも、当時、見物人が多かったのは、ちょっとしたがあったからではなかろうか。



そうとは言えども、今年の獄には余り囚人が居らんのじゃ、……怪しいことじゃ」


 そう言いながら、若竹丸は餅をペロリと食べ終った。


「よしよし、わしが喰うてやるわ」


 そう言うと、若竹丸は萌黄の分の餅も取ろうと手を伸ばす。

 すると、萌黄も反射的に餅を袂(着物の袖の下の袋のようになっている部分)に隠した。


「何じゃ、喰うのか! 」


 若竹丸がクスリと笑う。


「ふん、……後でしかと喰うので、良いであろう? 」


 この二人、喧嘩をしながらも何となく一緒に居ることが多いのだ。少なくとも、若竹丸は萌黄のことが気に入ってるのかもしれない。


「ところで、……若竹丸は聞き及んでおるか? 」


 若竹丸から獄のことを聞かされたせいか、萌黄が話し始めた。


 それは近いうちに、ようだ。……という噂である。


 何でも、碁仲間の僧が、高貴な家に誦経で呼ばれた時に、小耳に挟んだらしい。


「ほほぅ! ……然有さもありそうな話じゃな」


 若竹丸の瞳が輝いた。


 もし、本当に譲位が行われるなら、逆に獄に多くの囚人を繋いでおくのは危険かもしれない。なぜなら、祝い事には恩赦おんしゃが付き物だからだ。



 平安の世では、恩赦がしばしば行なわれた。


 恩赦とは、現代では主に、国の祝い事がある時に国家が犯罪者の刑を軽減させたり、軽い物なら消滅させたりするものである。


 だが、この時代は、天皇クラスの崩御ほうぎょや、病気の平癒祈願へいゆきがん等の外にも、天変地異(例えば日蝕にっしょく)のような不吉なことが起こった場合にも行われていた。


 現代では考えられないようなゆるい話だが、それは当時の人々が仏法を尊んでおり、罪の軽重にかかわらずことが"功徳を積む"ように思われていたからではなかろうか。


 しかし、冷泉れいぜい天皇から円融えんゆう天皇、それから花山かざん天皇、一条天皇と、藤原北家の外祖父の座をめぐる争いのせいで、目まぐるしく動く世の中では、これが犯罪の取締まりを甘くし、結果的には都の治安を悪くしたのではないかと思われるのだ。

 確かに、獄に繋いで恩赦の対象になるぐらいなら、暫く、放置しておくこともなのかもしれないが、だからといって、そのまま時が過ぎるまで手を緩めていることが、都の治安にとって本当に良いことなのか、難しい問題ではある。

 


 太陽が昇りきってから半時程経った頃、そろそろ若竹丸は使庁に忠明を迎えに行こうとしていた。


 丁度、屋敷を出発しょうとしていた時である。女性の悲鳴が聞こえてきた。


 一瞬、耳を疑う。


 すると、中年の水仕女みずしめが血相を変えて走ってきた。


「何事か! 」と問いただすと、


「賊じゃ、賊が入って来たのじゃ」


 そう言うと、縋るように若竹丸を見つめた。


「姫君が人質に取られておられる! 如何しよう? 」


 その言葉に、急いで離れの方へ行くと、建物へ続く廊下の辺りに、もう既に使用人達が集まっている。


「姫君は御無事か? 」


 取敢えず萌黄に声を掛けたが返事がない。


 萌黄は激しく泣いており、それどころではなかったからだ。そして、それを落着かせようと、初老の使用人がなだめている状態だった。


「我が、……我が人質になると申したが、姫君を盗られてしもうた」


 絞り出すように、萌黄が話す。


「おう、よう申したな。……そなたは良き従者じゃ」


 若竹丸も萌黄をあやすように頭を撫でてやった。


「それで、賊は何人じゃ、……若い男か? 強気つよげな者か? 」


 矢継ぎ早に質問する。


「一人じゃ、……若うはないはずじゃ、


さかん様は、本日は居られないのであろう? 儂は散々虐がれて痛い目にあったいたによって、ご挨拶に参ったのじゃ 』


 ……そう申しておった」


 どうやら、何処からか定信の不在の情報を得て、"離れ"の裏手にある土塀の崩れから忍び込んできた様子だ。


「……太刀を持っておった」


 そう言うと、萌黄がブルリと震えた。



 緊急事態である。


 若竹丸は、これでも使庁で働く看督長の従者だ。ここがだと思った。


「よいか、……ぜんでも出して待たせよ! 」


 そう言い残すと、うまやに急ぎ、留守用の老馬に古い鞍を置く。そして、それに飛び乗ると使庁に向かって走り出した。


 はっきり言って、それほど乗馬経験があるわけではない。


 だが、何が何でもげねば! ……そんな気持ちで馬にしがみつきながら走ったのだった。


 

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