第27話  平安 ★ 和歌バトル(1)

 秋になり、定信邸の庭に松虫(当時は専ら鈴虫のことを指していたらしい)が鳴くようになった。


 そして、今宵も涼やかな音が響き渡っている。


 義姉に碁で打ち負かされて以来、忠明は心を入れ替えて定信と打つようになった。


 そこで、以前よりは向上心が増した分、少しは上達したはずだが?


 ……とにかく、真面目にと、定信に教えを乞うている。


 その日も、二人は母屋の庇で盤を置くと、無心に碁を打った。


 庭の草木も風にと揺れ、月が顔を覗かせ始める。



 部屋の隅には、一ちょうの屏風が置かれていた。


 そこには、秋の草花に彩られた山の風景が描かれており、すすきや萩、桔梗が風の中で揺れる姿と、それを少し寂し気に見下ろすが描かれている。


 ……若い娘がいる家にしては、ちょっとではないか?


 とも思えるが、定信らしい気もした。


「良い屏風ですな」


「ほう、心付かれた気に入られたようじゃな」


 嬉しそうに、定信が微笑んだ。


「……秋らしゅうて、風情あわれで」


「これは、我の親父様が使庁を辞された折の祝いの品じゃ、それ故、いささかびておるがなぁ」


 それは母屋を目隠しするように置いてあった。


「義姉上様は、また、塗籠ぬりごめこもって居られますのか? 」


 ふと、気になって定信に聞いてみる。


「いや、"離れ"に居る。……どうやら、そなたの手筋てすじが気になるようで、心慌しいイライラするそうじゃ」


「はぁ? ……では、我とではなく義姉上様と打たれる方が良いではありませんか」


 思わず憤慨した。


「負けてしまう。……あ奴、のように強いのじゃ」


「へっ? 」



 聞くところによると、義姉にあたる"五百女いおめ姫"は、囲碁においては向う所敵なしの強者らしい。


 それにしても、五百女とは、仰々しい名前を付けたものだ。定信の口から、初めてその名を聞いた時には驚いたものである。


 何でも、定信にとって五百女は年を取ってからの一粒種で、そこで人と多くの縁を結べるようにと名付けたらしい。


 だが、結果的には、女人にしては"強い娘"に育ってしまったようだ。


 ……そんなことを話しながら定信は照れた。



 実を言うと、以前に義姉から出された和歌の宿題を、忠明はまだできずに苦しんでいる。


 今までも武張ったことなら、ある程度、経験済みだが、雅な事とは無縁だったので途方に暮れているのだ。


 だが、この課題をクリアしなければ義姉に認めてもらえない。


 ……そんな風に思い、碁を打つ合間にも情報収集をしているのだった。


 とはいえ、本人に挨拶する前に、親父様から義姉の名前を打ち明けられるとは、何か無言の圧力を感じる。


 少なくとも、当時、人の本名を聞き出すという行為は、余程気心が知れているか、親密な間柄でなければできなかったからだ。



 もともと平安時代には、人の本名(親から付けられた本来の名前)を直接呼ぶことを避ける習慣があった。


 それを呼ぶこと自体が、極めて無礼な事と考えられており、親やその人物の主君にあたるような立場の人にしか許されないことだったのである。


 名前には霊的な力があって、他人が名前を口にすることで、その人の運命に良くも悪くも影響を与えるかもしれない。……そんな風に思われていたからだ。


 そこで、当時の人々は"あざな"の様な別称を付けて呼び合っていた訳である。


 忠明の場合、看督様かんどさまは職業名から、そして天火様は、いわゆるニックネームだ。


 また、ごく若い年頃の兄弟の多い男性達の間では、"一郎"、"二郎"、"三郎"等と、まるでのような名前が使われたりしていた。


 もちろん、女性の場合も例外ではない。


 女性の場合は、より回りくどくて酷い。父親の仕事名で呼ばれたり、誰の妻だとか、誰の母だとか、政治に直接関係しないせいで公式文書にも残らず、正式の名前はごく一部の人物しか伝わっていない。


 とにかく平安の世で、何重にも社会から隠されていた女性の本名を呼ぶことは、本当の家族か、婿にでもならなければ許されないことであったのだ。



 『まさか、こんな事で苦労するとは!』


 忠明は頭を抱えていた。


 彼の育った環境には、"和歌"のような雅な文化が根付いていなかったからだ。


 うーん! 和歌など詠める気がしない。


 残念ながら、名前まで教えて下さった親父様には申し訳ないが、期待に応えられないだろう。


 ……このまま"義姉上あねうえ様"で押し通すからな!


 ……思い人でもあるまいし、名など呼ばんぞ!!


 ……うん。……いっそ、名など知らないことにしよう!!!


 忠明は、遠い目をした。



「天火殿! 長考ちょうこうし過ぎじゃ」


「あぁ、……これは、抜かりました」


 やっと、現実の世界に引き戻される。


「もしや、歌のことで思い煩っておるのではないか? ……すまんな、五百女は真に心強う気が強いてな、何や彼やなんじゃかんじゃと難しいのじゃ」


 定信は優しい人だ。娘の無茶ぶりに翻弄されている忠明を気遣ってくれている。


「我は田舎人ですので、歌の様なにはうとうて悩んでおります」


 思わず、本音がポロリと出た。


「いやいや、わしとて歌など詠めん! あれは、あ奴の"いたずら"じゃ。……捨て置いても良いからな」


 確かに、武官に 『和歌を詠め! 』 等と強要する事は、


 体育会系の若者に 『美しいドレスを縫え! 』 というような、があるかもしれない。 (まぁ、……裁縫上手なオカン男子もいるかもしれないが)


「……されど、このまま退くのも口惜しいので」


 忠明は、照れながら応えた。


「真に、つわものの家のむすめと云うに、まるで高貴な生まれの公達きんだちでなければ取合わぬかのようじゃ、……はしないことよ!」


 定信の苦労が伝わってくる。確かに、五百女の理想は、武官の娘にしては高過ぎるのかもしれない。


 公達というのは、親王や摂家を含むような上級貴族の子息のことである。


 ……忠明も、ちょっとイラッとした。


 まぁ、和歌を詠ませるなど、……当時の女性達にとっては、気に入らない縁談を断る為の常套じょうとう手段だったのかもしれないが。



 それでも、忠明なりに努力はしてみた。


 先ずは使庁に行き、自分よりは世慣れているであろう錦為信にしきのためのぶに相談する。


 すると為信は、暫くの間、ブスッとした表情のまま思い悩んでいたが、やがておもむろに口を開いた。


「う~む、少しかも知れんが、大学寮だいがくりょうに居る知り人に頼んでやろうか? 」


 何と! 大学寮とは随分と大袈裟な話になるなぁ、……ちょっとビビった。だが同時に、為信の謎のにも驚く。


 大学寮とは、律令制の下でつくられた、当時の官僚育成機関である。つまりエリート官人の卵が沢山いるところだ。


 為信の知人には、結構、優秀な人材がいる。……まさか、バイト料でも払って歌を作らせるとか?


「いや、いや、……それ程のことではありませんので」


 思わず遠慮してしまう。


 すると為信は、少し残念そうに深い息を吐いた。


義親父おやじ様の話では、……義姉上あねうえ様は、おもしろがって申されているようで、そのように物々しげなおおげさことではありません」


 よくよく考えてベストアンサーを出してくれたのだろう。ガッカリしたせいか、為信の目が何だかように見えた。



「ハハハ! ……歌などと、看督殿も成り上がられたことよのう」


 突然、後ろから誰かが話に割り込んできた。


 錦部文保にしきべのふみやすである。いつから聞いていたのだろう。久しぶりの登場に面喰らう。


「どこから湧いてこられましたか? 」


 思わず、為信が文保に突っ込む。


「何じゃと! 」


 実を言うと、文保と為信は年も近いうえに、身分的にもそれほど違いがない。そこで時々、軽口を叩きあう間柄なのだ。


「よう、聳丸よ! 歌などとしゃれたことを申しよって、女人とでも申睦もうしむつぶつもりなのか? 」


 看督になってからは、ついぞされなくなった久しぶりの"聳丸"呼びである。


「いやぁ、……そのような喜ばしいことではのうて」


 そう言いながらも、このようなには免疫がないので、忠明の顔は真っ赤になっていく。


「何じゃ、そちも偉うなったのう。……よいよい、わしが達者な者に頼んでやる」


 と安請け合いした。


 まさか、文保の世話になるとは、……とも思ったが、やはり上司なので立てねばなるまい。そこで、すこし様子を見ることにした。



 さて、問題の和歌だが、とりあえず最低限の注文は付けている。


 季節は秋なので、秋にふさわしい内容を詠み込むことを頼んだ。


 しかし、こんな無粋な武官連中に、良い歌などが思いつくはずがない。


 結局、歌ができあがり、忠明の手元に届いたのは、何のことはない師走になってからだった。




 

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