第26話  御簾越しの攻防戦(2)


 ここで突然ではあるが、平安時代の建物について、作者の分かる範囲で説明しようと思う。

 母屋おもやとは、現代の場合、離れ等の別棟があるような日本家屋の中で、家族が普段から日常生活を送るを指す。

 しかし、平安時代の寝殿造りでは、主人やその家族がいる建物"寝殿"の中でも、とりわけ家族のみが出入りできるように御簾などでを指している。

 御存知のように、平安の建物は用途別に分けられた複数の建物が長い渡り廊下で繋がっていた。

 もちろん、極端に言えばで、無駄な空間が多い伽藍洞がらんどうのような建物だった訳である。そこで、この時代の建物は、洋風の家のように細かいが幾つもある構造ではなかった。

 いや、むしろ部屋という概念さえ希薄だったのかもしれない。


 とりあえず、雨風は凌げるようになってはいたが、人々はこの箱のようなシンプルな建物の中で、それぞれの住居空間を簡単に仕切ることで暮らしていた。


 例えば、一軒の大きな建物があるとしたら、その最もが主人達のプライベートルーム"母屋"であり、その一角には"塗籠ぬりごめ"という唯一壁のある狭いスペースがあって、そこは土壁で囲まれていたので、貴重品を置いたり、物怪もののけを避けるために籠ったりしたそうだ。


 そして母屋は、普段から主の家族だけのプライベートルームとして、外から見えないように目隠しされている。


 また、母屋の外を廻るように広がった部分を"ひさし(廂)"と呼ぶ。


 今は庇というと、建物から外に出た片屋根のことを専ら表すが、当時の庇は母屋をぐるりと取り囲むを指し、身分の高い人々の従者達(女官等)は、そこを各々仕切ってにして暮らしていた。


 例えば、今のすだれの様な御簾みすを掛けてみたり、布でできた几帳きちょうや、洒落た屏風びょうぶを置いてみたりとか、最低限のプライバシィーしか確保できなかったかもしれないが、それなりに頑張っていたようである。


 そして、雨が激しい時や防犯が必要な時には、庇と廊下の間に雨戸の様な格子こうしを入れる。そうすると、庇までは外から遮断することが可能だった。


 だが、庇の外側には"簀子すのこ(簀子縁)"と呼ばれるスペースがまだあるのだ。


 ここは庇より一段低くなっていて、いつもは誰もが歩く使が、格子の外になるので雨に濡れてしまう。


 だが、庇と簀子の間にも、普段は部屋の内と外を分けるように掛けられた御簾や、目隠しの几帳等が置かれたので、来客が来た時などは、御簾越しに簀子が応接の場になったようだ。


 また、平安時代の身分の高い女性は、親しくない人には顔を見せないようにしていた為、あまり御簾の外に出て人に会うことはなかった。


 そこで、平安の男女間では、男性が女性のいる御簾の中に入っただけでも特別な関係になったと判断されてしまう。


 つまり、男女の恋愛の攻防戦は、で行われた訳である。




 さて、話は戻るが、忠明は夕餉を済ませて、完全にくつろぎモードに入っていた。


 庇と簀子の間にある段差に腰かけると、廊下にだらりと足を伸ばし庭を眺めている。


 今夜は満月のせいか、庇の前面にある御簾は丁度良い具合に巻き上げられており、月が美しく見えた。


 初夏の心地良い風が、青い緑の香りを運んでくる。


 だが残念ながら、……今夜も疲れのせいで眠くなりだす。


 まぁ遠慮しないところが、忠明の素朴で良い所なのかもしれないが、定信の帰りが遅すぎて、いつの間にか眠ってしまった。



 暫くすると、母屋と庇を隔てている御簾の中にボワリと光が浮かんだ。


 誰かが手燭てしょくを持って近づいて来た。


 何やら香を焚き込めたような良い香りがする。


 やがて、その光はまるで蛍のように御簾から庇へと現れ出ると、忠明の側までやって来た。


「今夜の夢は、……かぐわしいのう」


 そう言うと、反射的に忠明は光の元を見上げる。


「きゃっ! 」


 すると、そこには若い女がニョキリと立っていた。


「いや、いや、……きゃっ! ではよ」


 忠明は欠伸を噛み殺しながら話す。


「何じゃ、……そなた馴々なれなれしいのう」


 そう言うと、女は急いで御簾の中に逃げ込んでしまった。


 どうやら、例の定信の一人娘のようである。


 噂には聞いていたが、実際、本人らしき人物に会ったのは、この日が初めてだった。


 一度、定信が紹介しようとしてくれたが、塗籠に隠れてことがあるのだ。それ以来、義父との間で話題に挙げなくなっていた。


「いやぁ、義姉上あねうえ様でしたか、……これは物恥ずかしきところを、お見せしました」


 思わず居ずまいを正しかしこまる。


「そなた、……真によう寝るようじゃな」


「いやぁ! ……ハハハ」


 御簾越しではあるが、取り敢えず会話は成立した。


 忠明にとって、たとえそれがツッコミであっても、若い女性、しかもと会話できることは喜ばしいことなのだ。そこで恥ずかしながらも、嬉しそうに話をしている。


「そなたも、ハハハ、……ではなかろう! 父上様との碁打ちの折にも眠っておるではありませんか」


「いや、我は勝負事に弱いのです。……それで、つい疲くなってしまう」


「これ! 碁は勝負事ではありませんぞ、……よう思い回して打つものじゃ」


 すると、御簾が少しだけ上げられ、碁盤が差し出された。


 だが御簾の高さが微妙で、胸から上は隠れているため、顔は直接見ることができない。


「お父様に習うたのであろう。打ってみなされ」


 と、義姉上がさらりと言った。


 どうやら、定信の代わりに碁を打ってくれるようだ。



 それから暫く、御簾越しの攻防戦が行われた。


 忠明の打った石は、ことごとくにされていく。


 それ程厚くも打たないうちから、どんどん囲まれ、とても手向かいできなくなった。


「真に、そなたは弱いのう……お父様が哀れじゃ」


「いや、いや、義姉上様が上手なのですよ」


 忠明は、今まで経験したことのない緊張感を覚え、変な汗をかいている。


「フフフ、……そうでしょうか? そなたも、努めて強く成りなされ」


 心なしか、義姉上様の声が嬉しそうだ。


 やっと、コミュニケーションが普通に取れそうに思えたので、思い切って提案してみた。


「あの、義姉上様! ……御簾を上げては頂けないでしょうか」


 改めて挨拶しようと思ったからだ。


「まぁ、何を申されるかと思えば、……まだまだ、他にも習うべきことがありまするぞ! 」


 と、ピシャリと言われてしまった。



「では、良い歌でも、お詠みくださいませ」



 何故か、義理姉から新しい課題を出されてしまったのだ。



 結果的として、忠明はハードルを上げてしまったようである。




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