第23話  雷ジングサン ― 新たなるステップへ ― (1)

 延長えんちょう八年(西暦九三〇年)旧暦の六月二六日(今なら七月末の頃)のことである。


 宮中の清涼殿せいりょうでん(天皇の御座所)に雷が落ちた。


 この年の夏は旱魃かんばつに苦しんでいた為、宮中では、醍醐天皇の下、太政官達が" 雨乞い" について話し合っていた。


 だが、そんな日に限って、昼過ぎ頃から、突然、激しい雨が降り出したのである。


 最初のうちは、『雨乞いの話をすれば早速降るとは……』 そんな雰囲気だったのかもしれないが、雨はだんだん豪雨に変わり、終には雷まで鳴り始め、会議どころの話ではなくなった。


 当時、雷鳴があると、"雷鳴の陣らいめいのじん"という陣形ホーメーションを清涼殿で敷き、近衛の諸将が弓の弦を鳴らして天皇を守ったそうである。


 雷鳴の陣の様子は、清少納言の 『枕草子』 中でも、として取り上げられているから、知っている人も多いかもしれない。


 何でも、鳴弦めいげんには魔を払う呪術的な力があると信じられていたようだ。


 だが、当然のことながら、雷様はそんな段取りを悠長に待ってはくれない。"雷鳴の陣"どころか、実際は、あっという間に雷雲が近づいてきたのだろう。とうとう清涼殿の南西の第一の柱に雷が直撃した。


 そしてこの時、沢山の公卿や官人がそれに巻き込まれ、大惨事になったようである。



 例えば(役職、名の読み方は一部略しているが……)


  大納言 藤原清貫きよつら は服に火が付き、胸を焼かれて死亡。


  右中弁 平 稀世まれよ は顔を焼かれて、重症。


 また雷は、紫宸殿ししんでん(天皇が公式行事や政治を行う場所)にまで渡り、そこを警備していた兵衛府の者達の命を奪った。


  紀 蔭連 は服を焼かれて悶え苦しみ。


  安曇宗仁 は膝を焼かれて、重傷。


  右兵衛佐うひょうえのすけ 美努忠包ただかね は髪を焼かれて死亡した。


 当然のことながら、救急医療がない時代である。部分的にでも大火傷を負った人達は、死に至ったのではなかろうか。


 また、この大惨事は相当に衝撃的なものだったのだろう。当時、理不尽にも中央政界から追いやられた菅原道真すがわらみちざねのイメージにも結び付いて、


『 落雷は菅原道真公の怨霊の仕業ではないか…… 』


 と、道真が北野社(現在の北野天満宮)にまつられるになったと謂われる有名な事件だ。



 これは、『日本紀略』 という書物の中で、醍醐天皇時代の出来事として書かれている話だが、ここに、右衛門佐 という名前がある。


 そして忠明は、今まさに、その孫の世代と思われる美努定信さだのぶの屋敷に招かれ、馳走になっているのだった。


 同じ美努姓であっても、定信は忠明と違い、さほど背も高くないし細身である。


 見た目も穏和な感じで、言われないと、数年前まで検非違使庁に勤めていた人には見えない。


 むしろ、とても品良く見えるので、田舎者の忠明の目には根っからの"都の貴族" のように映った。


 それに、はっきり言って、和泉の国に住んでいる美努家の者達と比べて、都に住まう美努の人々では格が違うのだ。


 和泉は出所かもしれないが、都の美努は平安京への遷都と共に、わざわざ朝廷を支える為に上洛した官人の一族であり、それなりの位も持ち合わせていた。


 そして定信も、検非違使としてはさかん(第四番目の位の役職) まで勤め上げた人だったのだ。


 そこで、呼び出しが掛かった時には、正直、緊張した。


 いくら交流が途絶えているとしても、同族である。


 のことで、何か影響を与えていたら、結構な迷惑を被っているかもしれない。


 『……ここは、黙って謝るしかないかもしれぬ 』


 そう腹を括って、参上したのだ。


 いずれにせよ、例え末端の仕事だとしても、都の検非違使庁で働くなら、一度は挨拶に訪れる場所だったのである。


そこで、春まだ浅い吉日、忠明は意を決して定信の邸を尋ねたのであった。






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