第9話 新たなる出発
「ねぇ、婆様、これを見て下さいませ。餅を包んでいた紙ですが、こんなに沢山の文字が書かれているのですよ! 」
そう言うと、水泡は伸し餅を包んでいる紙を婆様に見せた。
いろいろな書の下書きに使われていたのだろうか、確かに、その包み紙は、白い部分がなくなりそうな程、裏も表も流麗な字がびっしりと書かれている。
「まぁ、これは、歌を考えてらしたのね。……どれも素敵、それに達筆ね。きっと名のある方じゃないかしら、……うふふ、やはり、あの方かもね 」
そう言うと、老婆は、ちょっと嬉しそうに微笑んだ。
「ほぅ、婆様の知り合いか? 」
と、忠明は興味が湧いたので聞いてみた。
「ええと、はぁ、……どうでしたっけ? 」
なぜか惚けた答えが返ってくる。
残念ながら、捨身尼は、最近、記憶が飛ぶことがあるようだ。
それでも元来、気の良い人なので、空気を読んでニコリと笑ってごまかした。
「ところで婆様、私に字を教えて頂けませんか? 」
突然、水泡が話を切り出す。
『おいおい……婆様に頼んで大丈夫なのか? 』
そんな風に忠明は心の中で思った。
「いえ、その、……せめて自分の名ぐらいは書けるようになりたいのです」
「
捨身尼が口を開いた。
「あまり良い名ではありませんよ。前から話すべきかどうか考えていたのですが」
「これ! ……婆様、何を申すか」
こういう時には、何故かはっきり物を言う捨身尼に、忠明の方が気を遣ってしまう。
「……良いのです。婆様、そのまま聞かせて下さいませ」
「水の泡など、いつでも消えるような名前は、本来、大事な人に付けてはならないものでしょう。いつまでも、拾われ子のような名ではいけないと思うのです」
その言葉に、案の定、水泡はじっと老婆の顔を見ると、またウルウルと目を潤ませた。
『おい、泣くなよ…… 水泡 !
婆様よ、泣かせるではないぞ……! 』
間に挟まれた忠明が、何故かドギマギしている。
「良い機会ですから、改名しませんか? 」
「はぁ? 」
何故か、忠明の方が思わず叫んだ。
「何故、天火様が驚かれるのです? 」
ブルブルと身震いしながら、水泡も忠明の方を見つめてくる。
「……いや、わしも同じ様な目に会ったからな」
すると、心なしか捨身尼の目がキラキラと輝きだしたように見えた。
「わしの場合は、検非違使の別当様の御子息と名前が似ているからという理由で、呼び方は変わらんが、
「ほほぅ、……なかなかやりますね」
老婆は軽快に笑う。
「……いや、むしろ吉事が起こりそうな改名ですよ! 」
「はぁ、どうしてそのようなことを思うのだ? 」
「私も、死出の旅路に向うために新しい名を付けたのですが、……こうして運よく、貴方様らに、お会いすることができましたもの。
それに、何やら不思議な話ですが、今となっては、まるで新たな
「なるほど、名を変えただけで、また新たに生まれ変われるという訳か……」
婆様の言葉に、忠明の中で燻ぶっていた憤りの気持ちが、だんだん消火されていく。
「では、私の名も考えて下さいませ! 」
今度は、普段は大人しい水泡が声を上げた。
「はい、はい! ……では、以前から考えていたのですが、
そう言うと、婆様は、一本だけ小屋に置かれている古い筆を取り、包み紙の白い部分にそっと書いて見せた。
「……そのまま呼び名は変えずに、書き字は"皆を
「ほほぅ、……なるほど、婆様もなかなかやるではないか」
「なんだか不思議! 突然、素敵な名前に思えてきました。これからは、そうしますね」
そう言うと、本当に嬉しそうに、水泡、いや皆和が微笑んだ。
そして、この日から、理明は忠明として、そして水泡は皆和として新たな旅に出発したのである。
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