第7話 狭いながらも楽しい婆家
長かった夜が明け、 日は高く上り、もう天頂に近づいている。
あれからも酔っ払い達はダラダラと意味もなく遊興し、とうとう朝になってしまった。
どうせ今日も、『 まだ盆が明けたばかりだ 』 と、皆、碌に働かないのだろう。
それに、いつものことだが、まともに働くのは、我らのような下っ端の者だけなのだ。
理明だった忠明は、馬上で
従者として宴には参加はしたものの、酒で正体を失ってしまうような連中の面倒を見る気には、もはやなれなかった。
実は、適当にバックレて来たのだ。
今頃、文保らは大きなお荷物に
だが、もう知ったことか、……もうこんな仕事辞めてやる!
忠明は、治めようのない苛立ちを抱えたまま馬を跳ばす。
やがて、捨身尼の小屋が見えてきた。
竹藪に隠れているので、涼しげな風がサヤサヤと吹いている。
「
忠明は、勢いよく扉を開けた。
すると、壁にもたれたまま、気を失ったように眠っている捨身尼の姿が見える。
「おい、婆様、大丈夫か? 」
忠明は先程までの興奮状態が醒め、今ではむしろ、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
急いで婆を抱きかかえると、そっと仰向けに寝かせてやる。
すると、何やら物を食べているかのように口をムニャムニャと動かし、寝返りを打つと再び眠り始めた。
クークーと、平和な寝息が聞こえてくる。
「何じゃ、肝を冷やしたではないか……」
何のことはない、……捨身尼の寝顔は子供のようだった。
人はやがて子供に戻っていく、……とは聞くが、確かにそうなのかもしれない。
忠明の怒りは、いつの間にか治まっていた。
婆の眠りがあまりに無邪気過ぎて肩透かしを食らったせいか、とにかく和んでしまい、力が抜けたのだ。
そして、忠明自身も、婆のもたれかかっていた壁にもたれると、眠ってしまったのである。
一時、まどろみの時間が流れた。
どれ程の時が経ったのだろうか、小屋の扉をそっと開け、何者かが入ってこようとしているのが分かった。
眠っている忠明の姿を見て、一瞬、ビクリとしたようだが、暫くするとソロリソロリと
そして、そっと忠明の顔を覗き込んだ。
「ぎゃっ……! 」
甲高い叫び声が聞こえる。
忠明が、その侵入者の胸倉を掴んで前に引き寄せたからである。
「天火様! ……私でございます」
「あぁ ? 」
よく目を見開いて相手の顔を見た。
忠明には職業柄か隙がない。
いつも、何かあった時のために気を張っている。
そこで仮眠中でも、小屋に入ってきた者の気配を感じ、咄嗟に体が反応したのだ。
だが、よく見ると、目の前には顔を真っ黒に汚した娘の顔があった。
「うっ、うぐぅ……」
どうも、聞き覚えのある声だ。
「どうした? 何をしておる、そちは、やや、……
「うう、死ぬかと思いました。……あぁ、恐ろしかった」
忠明は急いで、水泡の胸元から手を離した。
よく見ると、水泡の顔は
「そなた、何をしておるのじゃ? 」
水泡の話によると、
『今日は、某寺で"徳の高い女人"が法要をとり行うはずだ……』
という情報を婆から教えられたので、まだ、朝も暗いうちから出かけていたらしい。
運が良ければ、仏事の後の供物の菓子がもらえるかもしれない。
そういう思惑で出かけたようだ。
「これも、婆様に教えていただいたのですが、……なんでも、
『うら若い娘が、そのままの姿で出歩いておると、危ない目に合う! 』
とのことでしたので…… 」
「それで、わざと顔を真っ黒にしたのか? 」
「えっ、……そんなに黒いですか? 」
「ハハハ、……なかなかに黒いな! 面白いのう、その上、墨染の衣など着ておれば、確かに誰も手を出さんだろうな」
「……」
何やら、水泡が沈黙してしまった。
「なんじゃ、それはそれで嫌なのか、……ハハハ」
忠明は無神経に笑う。
すると、水泡の顔が急に曇ったかと思うと、やがて瞳から涙が溢れ出した。
「おい、何故泣くのだ……」
水の流れは水泡の頬をつたい、そこだけ黒い色を落としていく。すると、白い肌の色が筋状に現れた。
「おい、泣くな……泣くなと言っておろうが」
この言葉に、水泡は必死に涙を止めようと、目の周りをゴシゴシする。すると墨汚れが余計に広がった。
「すまん、すまん……! おい、もう泣くな。……ちゃんと謝るからのう」
そう言うと、少女に向かって手を合わせ、忠明は平謝りしている。
客観的にみると、不思議な光景だ。
「……食べ物ぐらい、己で何とかせねばならぬと思い、出かけておりました」
「そのようなこと、申しておれば、儂が何とかしてやるのに」
水泡の涙はまだ止まらない。それどころか、ひどく
「婆様の
この場合の怪しき者とは、ただの身分の賤しい者というよりは、ほぼ不審者として見られたことに対するショックな気持ちを表している。
それにしても、水泡の涙の破壊力は計り知れなかった。
忠明にとって、こんなふうに女性の涙を見る機会は今までなかったので、妙な意味で心が
「もう泣くな、……しょうがないのう。……では、わしの取って置きの宝を持ってきてやるから、婆様と待っておれ! 」
そう言うと、悪戯っぽく笑い、外に出かけて行ったである。
小屋から出て行った忠明は、 そこから暫く小高い裏山の方へ上り、草むらを掻き分けて進んだ。すると、一ヶ所だけ綺麗に整備されている小さな畑が現れた。
これは、彼の秘密の場所なのだ。
そこには、こっそりと瓜が育てられているが、それは、忠明が食べた瓜の種をそのまま育てたものであった。
「ふふん、これが、わしの取って置きじゃ、……しょうがないから食わせてやるわい! 」
そう言うと、
すると、コロコロと、小さくて細い瓜が何個も転がり出てきたのである。
一方、忠明が出かけた後のことだ。
目を覚ました捨身尼は、涙のせいで顔が汚れている水泡を小川に連れて行くと、きれいに顔を洗わせた。すると、少し落ち着いたのか、やっと表情が明るくなった。
何より、顔を洗った途端に、
そして今、忠明が手土産として持ってきた瓜が食べやすいよう切り分けられ、使い古された紙の上に載せられていた。
また、そこには苦労して手に入れた、水泡の戦利品の
今の時代では考えられないような粗末な物だが、三人はちょっとした"お菓子タイム"を楽しもうとしているのだった。
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