第3話 天火様(3)

 その日、激しい雨に打たれながら、捨身尼は、すぐ側に立っている誰の物とも知れぬ大きな墓石の横に寄り添うように座していた。

 雨はどんどんひどくなる。

 やがて意識が遠のき始めた。

 雨曝あまざらしのせいか、墨染すみぞめの衣の色はくすみ、ドロドロとみすぼらしく見えるが、敷物の畳には、美しい模様を織り込んだ高麗縁こうらいべりが使われており、老婆が、ただならぬ身分の人であることが見て取れたのである。

 やがて、老婆は最期の時を感じたのか、少しでも人目につかない場所に移ろうと、最後の力を振絞り雨のあたらない大きな木の下に移動しようとした。

 そのノロノロした動きは、まるで地を這う虫のようである。


「おい、ばば様! 」


 この言葉に、意識が引き戻された。

「雷神様が来るぞ、木の側は勧められんな、落ちるかも知れんぞ! 」

 突然話しかけてきた男の顔を、老婆は必死に見上げる。

「やれやれ……信じられんか、それでも、わしはちょっと雷には詳しいのじゃ。

 ……なにせ先祖が雷神様に焼かれて死んでおるからな」

 そこには、まだ年の頃なら十七、八歳ぐらいにしか見えない若者が、はにかみながら立っていた。

「……それも、帝をお護りしておった時らしい、恐ろしい話ではあるが、わしは一族の誉だと思っておる」

 そう言いながら、ニコリと笑うと、男は身に羽織っていたみのを老婆にワサリとかけてくれたのである。

 これが理明と捨身尼との出会だ。


 この精悍な体つきの若者は、全ての者に見捨てられた老人に親切にも手を差し伸べた。

 そして、雨露が凌げる、街道沿いの見張り小屋に連れていくと、最低限の衣食を用意してくれたのである。


『このような、生きるだけでも大変な現世で、社会的にも身体的にも終わりを迎えようとしている老人に、何故、善意を向けてくれるのだろう? 』

 そう思って、捨身尼は問うた。


「のう、天火様」

 ちなみに、天火とは落雷で生じる火災の事である。

 老婆は、何時の頃からか、不幸な天災にあった先祖を自らの武勇の根源のように話す若者に、こんな敬称ニックネームを贈っていた。

「婆は、もうこの世では役に立たぬようになったので、鳥辺野に捨てられたのですぞ、何故に、優しくして下さるのですか? 」

「……知っておるか、鳥辺野に葬られる死者へのは、生者にとっては贈物に変わるのじゃ。

 例えば、哀れに亡くなった死児にと! ……手向けられた銀器も、いずれ誰かに拾われ、売られて誰かの物になる。それと同じじゃ。わしも、使えると思うたから婆を拾ったのじゃ、勘違いするな! 」

 そう言うと、若者はニヤリと笑う。

「……それに、婆はわしより長生きすることもなかろう? 」

 その笑いの中には、何か皮肉な色すら見えたのだが、

「ここだけの話だが、儂には まことの身内がのじゃ、生まれが複雑でのう、糧米を納めるよりは容易いからと、働き手として故郷から出された。つまりは、不要の子というわけじゃ」

「それは、考えすぎでしょう。この様に立派な男子おのこですもの、田舎に埋もれさせるのは勿体ないと思われたのでは? 」

「いいや、……貧し御厨子女みずしめ(厨房で働く下女)の産んだ子などに、それ程の価値があるとは思われておらぬわ! 」


『何故、見ず知らずの老婆にここまで話しているのだろうか? 』

 理明は不思議な気分になった。

 そして、そんな疑問を抱きながらも言葉を続けたのである。


「それでも、育ての母上様には可愛がってもろうた。だが、三年前に身罷みまかられて、それ以来、儂の周りには細やかな事を教えてくれるような 女人にょにんがおらんようになっておる」

「女人? ……それは婆でもよろしいのでしょうか? 」

 すると、その問いに

「プププッ……」

 と、理明は少年のように笑った。

「もちろん、世事について詳しいは大歓迎じゃ! 」



 捨身尼しゃしんに……この名は、鳥辺野におもむくにあたって、本人が付けた名前らしい。

 本当の名前は理明も知らないし、また聞き出すのも野暮なことだと思っている。

 婆は、この世を捨て、もう鬼籍きせき(死後の世界)に入った存在なのだ。

 ただ、仕事柄いろいろと得られる情報で、婆が極めて評判が悪かった国司の妹であり、高貴な生まれの人の究極のだと知っていた。

 そんな老婆なら使い道があろうと、……拾ってはみたが、果たして何ができるというのか。

 また、己が生きていくためには何が必要で、それが老婆から得られるものなのか?

 ……実は考えあぐね、困っているのが現状なのだ。

 まぁ、そう簡単には結論は出まい。

 だが、一つ言えることは、という純粋な思いが存在していることだった。


 やがて消えていく命ではないか。

 ……せめて、本当の家族のように、己の生きる糧になれば面白いかもしれぬ。

 時々、婆が見せる惚けた顔を見ながら、理明はそんなことを考えていたのである。


 そして、そうこうしているうちに、やっと彼女から学べそうなことが思いついた。

 それは、歌を詠むことだ。

 この当時の身分が高い女性にとっては、歌が詠めることは必須条件であった。

 また、捨身尼は若かりし頃、歌人としても知られた存在だったからである。



柏木かしわぎの 森のわたりをうち過ぎて 三笠みかさの山にわれは来にけり」

「……」

「どうじゃ、なかなかのものであろう……」

 老婆に無言で顔を覗き込まれ、理明はドギマギしている。

「何ですか、壬生忠岑みぶのただみね様が詠まれた歌でしょうに」

「ふむ、あはは……」

 笑ってごまかす。

 一度、このとぼけた老婆をからかってやろうと、この歌を自作のように詠んだことがある。

 これは、百人一首でも著名な壬生忠岑が、右衛門府生うえもんのふしょうから左近将監さこんのしょうげんへ出世した際に、酒宴で詠んだと言われている歌である。

 但し、忠岑に関しては余りに情報が少ないので、残念ながら、確かなことは言えない。

 とにかく、壬生忠岑は実は身分の低い下級武官の出身だったようで、その官歴よりも"和歌の上手い人"という印象で、後世に語られている。

 そして、歌人としての才能が認められ、『古今和歌集』の選者に抜擢されたようだ。

 因みに、この歌に出てくる"柏木の森"とは、兵衛府・衛門府など御所を守る部署を表す言葉であり、"三笠山"とは、近衛府のような天皇を護衛する部署のことを表しているそうである。

 つまり武官としての職務を全うし、遂に、天子の側近くで護衛する立場になれた。……という祝い歌なのだ。


「この歌で舞うと、酒宴が盛り上がるのでのう……」

 決まり悪げに理明が笑った。

「はぁ、……どうも、儂は歌詠みには向いてないようじゃ、もし歌詠みの才があれば、歌合せの客人として呼ばれ、高貴な方々に近づけるであろうに」

 恥ずかしいのか、理明の顔が赤くなっている。

「歌がお好きなのですか? 」

「いや、その……それ程でもないのだが、何か手取り早く上手くなる方法はないかのう」

「まぁ……」

 老婆は呆れた。

「そのようにやすき道があるならば、この婆も迷いませんでしたよ」

 いささか文学的な、いや本当の歌詠みらしい表現で回答する。

「ははは……、では、どうにもならんな。忠岑様のような出世は望めんようじゃ」

「いえいえ、何を申されますか、貴方様には立派な体格からだがあるではありませんか。まずは衛府の仕事で活躍なさいませ! 」

「そうか、……そうじゃな」

 婆の言葉にそう返答すると、長身の若者は、屈託なく微笑んだ。

 理明の顔は、外仕事が多いせいか、日に焼けて黒い。それに、いつも着ている薄い青味を帯びた麻の衣も、そこそこ汚れたものである。

 しかし、その微笑みは、それらを差っ引いても余りある爽やかさがあり、理明の純朴で明るい表情は、老婆の不安な心に日が射すような暖かさをもたらした。


「良いお顔ですね」

「そうか……」

「きっと、貴方様にはがございますぞ」


 こんな話をして以来、理明にとっても捨身尼は身内のような存在になったのである。



水泡みなわと申したな、これから、この婆様にいろいろ教えてもらうと良い。女人としての所作しょさ物習ものならい や、……そうじゃな、歌なども教えてもらえ! 」

 水泡の顔が一瞬曇った。

「私などに詠めるのでしょうか」

「まぁ、できるじゃろう! 儂よりは、……まぁ、やる気があればの話だが」

 無責任に笑う。

「武で身を立てるよりは、容易きことよ」

「……」

「そうですとも、天火様ほど歌が下手な人は、そうそういらっしゃいませんからね」

「おいおい……、それはないだろう。わしは優秀なできる男ぞ。見るからにそうであろう」

 水泡に目配したが、困ったように眼を伏せた。存外、人見知りのようだ。

 理明が、相当な武人で頼りがいがある男だということは理解できても、清水寺でのことを考えると、引っ張り廻されて味わった強烈な緊張感や恐怖を思い出して、少し怖い人物のように思っているのかもしれない。


「ところで、おまえには親や兄弟と言えるような者はおるのか? 」

「いえ、清水寺の境内に捨てられていたそうですから、……生まれてこの方、身内と呼べるような者はおりません。ただ、育ててもらった人達はいますが……」

「だからとて、その者らの為に身を削るのは嫌なのだろう? 」

「はい、私は人と話すのが怖いのです」

 また、目を伏せる。

「随分と難儀な話じゃ、それでは奴らにとっても元手もとでが取れまい」

「判っております。もう覚悟は決めておりました。せめて、観音様の御前にて、取親そだてのおや達の平穏無事を祈願し、最後の親孝行をしようと……」


「これ! ……親というものは、元手が取れるからと子を育てるものではありませんぞ。

 ましてや、老いて打ち捨てられたとしても子を慈しむものでございます。

 ですから、そのような者達に、義理を感じなくてもよいのですよ! 」


 老婆が少女の言葉を遮った。

 普段は穏やかな捨身尼のこの一言には、親として生き抜いてきた説得力が感じられる。

「おう、婆様は良いことを言うのう。わしでは太刀打ちできんような話をされる。やはりあのまま死なさず、生きたまま連れて来てよかった」

「何をおっしゃいますやら、婆はもうこの世の者ではありませんぞ、この鳥辺野に足を踏み入れてからは、生きながらその時を待っております。

 ……ただ、あの世に行くからには、婆に関わった方々には幸せになっていただきたい。

 ……徳を積みたい。そう思っているだけです」

 老婆はカラリと言ってのけ、ニコリと笑う。

 だが、それでも充分に、母心のようなものが伝わった。


「いや、なかなか良いものじゃのう。というものは! 」

 そう言うと、理明は何だか嬉しそうに笑ったのである。


 そして、その日から、理明にとってがまた一人増えたのだった。





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