第2話 天火様(2)
理明が、やっと観音様が奉られた御堂に辿り着いた時にも、まだ、その女は橋殿の
よく見ると、それは、まだあどけなさが残る少女のようだ。
大きな目を見開き、何か思いつめたように谷を見下ろしている。
おそらく、飛び降りるつもりなのだろう、いや、むしろ雷に貫かれ死にたいのかもしれない。
どちらにしろ、
「おい、そこで何をしておる」
理明は、腹立たしげに大声で呼びかけた。
「仏が
おまえのように、よく考えもせずに仏の慈悲を試すような者の願いを聞いて下さるものか、よく考えてみよ! 」
激しい風がヒュルヒュルと吹き、理明の声は、雨の中にむなしく消える。
だが、全く伝わらなかったわけでもないようだ。
娘の視線が、スッと理明の方に向けられたかと思うと、寂しそうに薄笑ったからだ。
いや、一瞬、そう見えただけなのかもしれないが、それでも、理明には、少女が何かに追い詰められ、助けを求めているように見えた。
いつもは、こんな無謀なことはしないのだが、妙に居たたまれない気分になり、激しい雨が吹き荒れる橋殿の方に歩み出る。
「こら、今日は谷に飛び降りたりするな。少なくとも、わしの目の前で
……ここは仏を拝んで、心地良くなる処なのであろう? 」
少し語気を和らげて話しかけてみる。
遠雷の音がした。
いよいよ大雨雲が近づいて来たようだ。
よく見ると、柱の陰に何人かの男たちが潜んでいる。まるで少女を遠巻きに見ているかのようだった。逃げないように監視しているのか、とはいえ、こんな空模様では逃げようもないだろうに、今にも雷が落ちてきそうな気配だ。
「愚かな奴じゃのう、
そう言うと、理明はイライラしながらも少女の方に歩み寄った。
普段なら、なるべく厄介事には首を突っ込まないようにしているが、ここ清水寺では要らぬ気を遣ってしまう。何だか、過剰に仕事をしている気がする。
「おい、その女に何の用じゃ、おまえには関係なかろう」
そんな罵声が聞こえて来たかと思うと、案の定、バラバラと男達が飛び出してきた。
「おい、何をやらかしたのだ。そろいも揃って、見たことのある輩が出てくるとは……」
理明は、肩を
すると、男たちの中でもとりわけ大きな男が近づいて来た。
「おう、美努殿ではないか、随分とご無沙汰ですな、お噂はかねがね。
……まぁ、今日のところはこの様な不粋事に関わらず、ゆるりと観音参りでもなされてはいかがかな? 」
そう言うと、少し禿げあがった頭を掻きながら笑った。
「そうじゃな、……わしとて関わりとうはないが、ここは
「いやいや、……はっきり申しますが、その女はとんでもない不孝者でして、この年になるまで我等に食わせてもらいながら、働こうとはせんのです。十三年程前に清水の堂の下に捨てられていたものを、我らが慈しみ育てたというのに……」
「働かせるだと? ……どうせ、禄でもない事を企んでおるのだろう」
理明は、笑いながら男の肩をポンポンと敲いた。
すると、同時に激しい雷音が響き渡り、ギラギラと光が点滅する。
そして、突風が吹いたかと思うと、堂の中から参拝者たちの悲鳴が聞こえ始めた。
いつの世でも、雷は恐れられているものだ。
「ふふん、……まぁ、雷神様もお怒りのようじゃ、今日のところは矛を収めよ」
男たちは、雷鳴に引き
「わしは、そなたらのような
不敵に笑って見せる。
すると、さすがにその煽り言葉を受け、我に返った男達は、少女と理明を取り囲んだのである。
「話の解らぬ奴らじゃのう……、このままでは皆で雷神様の供物になるぞ! 」
そう言いながらも理明は、まだまだ余裕で微笑んだ。
空が激しく光り、そして間髪いれず轟音が鳴った。
「近いな……」
突然、少女の腕を掴むと、雷鳴に
お籠りに来ていた貴族の子女達であろうか、この突然の侵入者に絹のような悲鳴を上げる。激しい風に吹かれ、
理明は、まるで本物の雷神のように人々の間を駆け抜けると、少女を担いで坂を下り、急いで馬駐に向かう。
すると、雨を避け休んでいた若竹丸がムクリと起き上がり、何事か? ……と眼を見開いた。
「馬を使うぞ」
そう吐き捨てるように言うと、娘を馬上に乗せ、坂を駆け下りたのである。
時が経ち、雨はひとまず小降りになったが、雨粒はまだ、風に煽られ霧のように揺れて見えていた。
二人を乗せた馬は、
ここまで来ると、さすがに静かでひっそりとしており、むしろ怖いぐらい寂しいのだ。
それに、もう人家さえ見当たらない。そんな外れにまで来たようである。
それでも進み続けると、まるで雑木林に隠れるかのように立つ、雨風が凌げる程度の小屋が見えてきた。
「
すると、その声に誘われるように、小さな子供のように背が低い老婆が現れた。
「これは、これは、天火様ではありませぬか、このような処にいらっしゃるとは、何事かございましたか」
老婆は恭しく腰を曲げながら一礼をしたが、すぐさま頭をあげると理明の顔を見ながらクスクスと笑いだした。
理明が、馬上に少女を乗せている姿に反応しているようだ。
「何か御事情があるようですね。……この
人懐っこく笑う。
「おぅ、捨身尼、息災であったか……、いや、その……」
その屈託ない微笑に、理明は思わず口籠ってしまった。
「世の中には、いろんな事情があってな、これも仕事のようなものじゃ」
などと、適当に言ってみたがバツが悪い。どう見ても、いたいけな子供をかっ攫ってきた悪者のように見えているのではなかろうか。
夏とはいえ、雨に濡れた体は冷える。
そこで二人は、捨身尼の狭い小屋の中で、身を寄せ合うように暖を取っていた。
それは、わざとではなく、この小屋が三人には、物理的に狭すぎるからなのだ。
もともと、ここは見張り用に仮設されたもので、最低限の広さしかない。だが、煮炊きはできるし、何とか生活することはできた。
そして今、二人は捨身尼の小屋でやっと落ち着けたところなのである。
「言っておくが、あの場からうまく逃げられたとしても、あのような輩は、お前を諦めるわけではあるまい。それ相応の策を練らねば、また連れ戻されるぞ! 」
娘は下を向いたままコクリと頷いた。
「ところで、年はいくつだ。………名は何と言う? 」
「十三です。名は水の泡と書いて
蚊の泣くような声で言う。
尋問のようにぶっきらぼうな理明の話し方に、老婆は堪りかねて助け舟を出した。
「そうですか、良い名ですね……」
捨身尼の一言に、少女が顔を上げる。
「おぅ、良いお顔ではありませんか、
……天火様、もう少しゆるりと仰しゃりませ! 」
さすがに老婆は世慣れていた。少女の顔が
一方、理明は気まずくて頭を掻いた。
「まぁ、よい……よく聞け、この婆はそんじょそこらにいる婆ではない。
もとは殿上で歌なども詠んだことがある人だ。たまたま家で体を壊し、尼になっておられたが、家族がおらんようになったため、
「はは……死にきれずに困っておりまする」
決り悪そうに捨身尼は微笑む。
「実は婆も、天火様に命を拾うてもろたのですぞ」
平安のこの時代、家の中で人が死ぬと"
穢れると、そのせいで良からぬ運気を招いてしまう。……そんな、発想があったようだ。
その為か、どんなに身分の高い者でも、死に瀕した重病になると、不浄な存在として屋敷の外に出されてしまうことは珍しくなかったのである。
この老婆もご多分に洩れず、国司まで務めた夫が死んだ後は、体調を崩したのを機に子供たちからも見放された。その後、出家して尼にはなったものの、最後には頼りにしていた実家の兄にも相手にされず、自ら鳥辺野に死地を求めることになったのである。
それは近隣で疫病が流行り、老婆も腹を下して、いよいよ危うくなった時のことだ。
案の定、実兄の息子から家を出て行って欲しいと懇願された。
確かに酷い話ではあるが、捨身尼は、"これも世の常なのだ"と腹を括ることにしたのである。
そして、家の者から最後の
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