奇妙な男と不思議な種まき
霧ヶ原 悠
奇妙な男と不思議な種まき
昔々というほども遠くなく、昨日というほどにも近くなく。
あるところに、たくさんの高い高いビルがひしめきあう町がありました。
鋼鉄でできたビルはどれも天を衝くほどに高いものばかりでしたが、それでもまだ足りないと、競うように上へ上へと伸ばす工事を繰り返していました。
その町は、遠くから見ればずらりと並んだ武器の先のようにも、あるいは、太陽の光を反射してまばゆい輝きに包まれているようにも見えました。
だから外の人々は町のことを、驚嘆と賞賛をこめて「光芒たる摩天楼の町」と呼びました。
光が当たる摩天楼の部屋は明るく、温かく、また吹く風は心地良く、気ままに鳥と戯れることも、愛らしい花を愛でることも自由で、天の楽園に最も近きはこの場所であると、住人たちは自慢げに語りました。
では、その下は?
天と地を繋ぐほどに高いビルは、地上から光と温もりと風と動物と植物を奪いました。
暗く、寒く、澱み、色褪せて悪臭漂うそこは、地の上でありながら、まるで地底のようなひどい有様でした。
そんな場所で細々と暮らしているわずかな人々の間には、一つの噂がありました。
いつ、どこからともなく現れては、
「I ask
と尋ねていく奇妙な男がいるというのです。
時には割れた窓の縁から、時には瓦礫の山の上から。
彼は白いシルクのシャツに滑らかなビロードの黒いズボンという上等な服を着ていましたが、履いていたのは薄っぺらな革のサンダルでしたし、羽織っていたコートは破れてツギハギだらけのボロでした。
よれよれの帽子を深くかぶっているので目元は見えず、人はただ、作り物めいた白い顔の、濃い口紅が塗られた唇が動くのを見るだけでした。
「I ask
ある男はこう答えました。
「ケッ! 月どころか太陽すら見たことねえよ!」
すると彼は、ズボンのポケットから赤い小さな種を取り出して男へと投げ渡しました。
また、ある少女はこう答えました。
「つきってなーに?」
すると彼は、ズボンのポケットから青い小さな種を取り出すと、少女の手にそっと握らせました。
「これはとっても不思議な種さ。好きなところに植えてごらん、いつか素敵なものを見せてくれるから」
茜色、薔薇色、檸檬色、向日葵色。瑠璃色、空色、菫色、露草色。
彼が渡す種の色はその時々で違いましたが、どれもこれも彼の耳で揺れている大きなダイヤモンドと同じ美しさと輝きを持っていました。
赤い種をもらった男は、
「こいつは宝石だ! 絶対誰にも渡さねえぞ! オレのもんだ!」
そう言って種を肌身離さず大事にして、大事に抱えたまま死にました。
青い種をもらった少女は、
「何が咲くかな♪ 何が咲くかな♪」
そう言って種を腐った地面に埋め、毎日楽しみにしながら死にました。
今日も彼は問うて回ります。
「I ask
何度も、何度も、何度でも。いつか、素敵なものが見れるまで。
そうして何十年が経ち、種が地底のような下町全てに蒔かれた頃。
大地が鳴動を始めました。
最初、摩天楼の住人たちは何も気にしませんでした。
こうも高くなると、ちょっとした揺れでも感じ取ってしまうからです。
ですがだんだん揺れが激しくなり、何かが壊れるような音が聞こえるようになると、不安になって窓の外から下を覗き込みました。
するとあろうことか、巨大な蔦が摩天楼を突き破りながら、あるいは摩天楼に巻きついて破壊しながら、光を求めて上を目指してきていました。
そう。下町で芽吹いた種が、死体と汚泥と悪臭を糧に、おとぎ話の豆の木のように大きく大きく育っていたのです。
住人たちは悲鳴をあげましたが、彼らに空を飛ぶ翼はありません。
一人残らず。皆等しく。地上へと落とされていきました。
蔦もまた支えを失い、徐々に地上へと倒れていきました。
そして少しずつですが、穢れた大地を浄化するように太陽の光が地上を照らし始めたのでした。
崩壊にまぎれて、喜ぶ誰かの笑い声を聞いたような気がしましたが、誰も気に留めてはいられませんでした。
やがて崩壊が終わり、夜が訪れる。
静かになった蔓の根元から這い出したとある少年は、この世でもっとも美しき青い月を見た。
見た者は幸福になれると言われている、青い月を。
奇妙な男と不思議な種まき 霧ヶ原 悠 @haruka-k
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