37話 正体

「今日のご飯どうしよっか?」


 家に着いた私は鞄をソファに置いて、洗面所で手を洗う。

 後ろにいる真白はちらりと扉の向こうに目をやった。


 そこにはキッチンの大量カップ麺。我ながらよくこんなに買い溜めしたなと思う。


「うーん……カップ麺……と言いたい所ですが、下条君に釘を刺されてしまいましたからね」


「って言っても、うちに食材なんかないし」


「外に食べに行きますか?」


「めんどくさいなぁ……」


「ですよね」


 帰りがけにそのまま寄っていくとかならいいけど、家に帰ってからもう一度出かけるのは極力したくない。手も洗っちゃったし。


「じゃあやっぱりあれしかないね」


「あれ、ですね」


 真白と入れ替わるように洗面所を出て、私は鞄からスマホを取り出す。

 開くのは当然ウーバーだ。

 ウーバーがある時代に生まれて本当によかった。家にいてもご飯が届くなんてこんな便利なことはない。


 スマホに表示された時計は、16時を指している。


「晩ご飯にはちょっと早いかな」


「でもお腹が空いてから頼むより、先に頼んでおいて後で食べた方がよくないですか?」


「確かにそうかも。じゃあ先に頼んじゃおっか」


 配達時間がなるべく短いお店を選んでささっと注文。

 予定では10分くらいで来るとのこと。たまたま近くに配達ドライバーさんがいたみたい。ラッキーだ。


 そのまま真白と一緒にソファでごろごろしてウーバーを待っていると、インターホンが鳴った。


「はーい」


 画面に映っているのは男の配達員さん。手にはビニール袋を持っていた。


『あ、ウーバーですー』


「今開けますね」


 私はエントランスの扉を開錠した。

 しばらくすると玄関の前に商品を置いた旨の通知が届いたので、玄関の扉を開けて置かれていたビニール袋を拾い上げる。


 そのまま扉を閉めようとした、その時――



 扉の隙間に、足が差し込まれた。


「え」


 次いで扉が強引に開け放たれる。


「やっと会えたね。こころちゃん……すいちゃん……」


 そこに立っていたのは、ウーバーの配達ドライバーの人だった。


「――!!」


 私はとっさに目の前の男を押し出そうと手を伸ばす。

 けれど男はあっけなく私の手を掴むと、そのままぐいっと勢いよく突き飛ばした。


「あぅっ!」


 手からビニール袋が零れ落ちて、ぐしゃりと音を立てる。

 ぎいいっと玄関の扉が閉まった。


「結乃ちゃん……!?」


 男は怒りとも喜びとも悲しみとも取れる、形容し難い表情のまま、ただ私を見下ろす。


「け、警察に……!」


 そう言ってリビングへ戻ろうとした真白を、男が制止する。


「動くな!!」


 その怒鳴り声で、思わず体が、心臓が、跳ね上がる。


 怖い。

 怖い。

 怖い。


 どうしてウーバーの人が。もしかして、ずっと機会を伺っていた?

 私達がウーバーを頼むことも知ってて、家に入るためにわざわざこんなことを?

 分かんない。分かんない。

 怖い。目の前にいる人が、怖い。


 男は手を後ろに回すと、一本のナイフを取り出した。


「騒いだら……殺す。警察を呼んでも、殺す。俺はただ、二人とお喋りしたいだけだ。あぁそうだ。それだけだ。だから何もするな。約束を守れば、乱暴なことはしない」


「ひっ……」


 歯が、勝手にがちがちと音を立てる。

 恐怖が体中を這いずり回って、指先一つ動かせない。

 息が苦しい。呼吸ができない。


「俺はね、ずっとずっと二人を応援してたんだ……初配信の時から、ずっと二人を見てきた。だから、二人の正体があの藤白結乃と奈良瀬真白だって気付いた時は、それはもう運命を感じたね。あの孤高の姫君が、まさか俺の推しだったなんて!」


「な、何を言って……」


 男はナイフをぶらぶらと揺らしながら、私の顔を覗き込んだ。


「あれ、分からない? はぁ、一度振った相手は眼中にないですって? 傷付くなぁ」


 それは以前から私達を知っているような口ぶりだった。

 でも、この人の顔に見覚えはない。記憶にない。こんなことされるようなことをした覚えなんかない。


「俺だよ、俺。斎藤翔」


 名前を聞いても、ぴんとこなかった。

 でも、なんとなく察しはつく。多分、私達をお昼に誘ったり告白したりしてきた男子達の中の誰か。


「……俺、学校じゃあ結構人気者のはずなんだけどなぁ。ほら、あれだよ。ちょっと前にお昼に誘って断られた」


「あ……」


 そうだ。思い出した。

 下条君に初めてお昼に誘われたあの日。私達が下条君に指南役をお願いしたあの日。

 あの日に私達をお昼に誘った人だ。


「思い出した?」


 斎藤はにこりと微笑む。

 でも私は、その正体を知って更に恐怖を募らせた。


 お昼を断られた。

 もしかして、それで?


 そんな理由で、ここまでするの。


 自分の価値観では全く図れない男。同じ人間とは思えない、得体の知れない恐怖。


「俺さ、結構女子から人気あるんだよ。サッカー部のエースだし、勉強もできるし、顔だっていいしね。でもあっさり断られた。しかも……しかもだよ……君達は俺の誘いを断っておきながら別の男と食事をしてた」


 下条君の顔が、脳裏によぎる。

 斎藤の顔が、怒りと苦痛で歪んでいく。


「許せないよねぇ、そんなの。許せない。あぁ許せないさ。バカにされた気分だ。君達のことを、どうにかしてめちゃくちゃにしてやりたいと思った。でもね、あの配信を聞いて、気付いちゃったんだ。二人が白羽こころと黒羽すいなんだって」


 斎藤はしゃがみ込んで、無邪気な笑みを浮かべる。

 背筋がざわついた。


「俺の推しが、すぐそこにいた! これはもう運命だよ。俺達はやっぱり結ばれる運命なのさ。だって、俺は、ずっとずっとずっと、誰よりも誰よりも二人を愛して、推して、支えてきたんだから。……それなのに、それなのにあいつが……下条陽翔がぁッ!!」


 がしがしと髪の毛をかきむしるその姿を、その異様な光景を、ただ見ていることしかできない。


「あいつがずっと君達の隣にいて、一番の理解者みたいな顔をして、あんな奴の何がいいんだ? どうせあいつも君達の体が目当てだよ。俺は違う。俺は二人を見てる。俺だけが理解してあげられる。だからあんなロクでなしのゴミクズ野郎なんか忘れて、君達は俺と一緒にいるべきなんだよ」


 何を、言ってるの……この人は。


 困惑、恐怖、不安、怯え。

 色々な感情が渦巻く中、それでも私の中に明確に沸き立ったのは――


 純然たる、怒りだった。


「……ふざけないで」


「あ?」


 どうして下条君が、そんな風に言われなきゃいけないの。


「下条君は、私達を助けてくれた。下条君のお陰で、私達は楽しく配信ができてるの。それを、あなたに否定される謂れはない」


 下条君は、ずっと私達を助けてくれた。

 どうしたらいいか分からない私達に道標をくれた。

 あのまま配信を続けてたら、いつか心が折れてVtuberを辞めてたかもしれない。


「私達を救ってくれたのは下条君で、あなたじゃない。あなたの力なんて、全然、これっぽっちもいらないし、興味もない」


 私は、他人と関わるのが怖かった。

 私は小さい頃からパパの会社を上手く回すための道具でしかなくて、好きでもない相手とお見合いしたり求婚される毎日。

 誰も私なんて見てなくて、見てるのはこの容姿とパパの持ってるお金や権力だけ。

 それが嫌で、怖くて、人間関係を全部拒絶して、私はパパにとっての不用品になった。


 誰も信じられない。信じたくない。信じるのが怖い。他人の目が怖い。

 信じられるのは、真白だけ。

 真白はずっとお手伝いさんとして働いてた奈良瀬さんの娘で、同い年なのもあってすぐに仲良くなった。

 真白だけは私を色眼鏡で見ないで、対等な友達として接してくれる。


 でも私は、変わりたかった。

 本当は変わって、友達も沢山作って、普通に楽しく学校生活を送りたかった。


 そんな時だった。下条君と知り合ったのは。

 下条君は白羽こころだけじゃなくて、藤白結乃のことも助けてくれた。

 友達を紹介してくれて、どうすればもっと他人と会話できるようになるのか考えてくれて。


 そんな彼に、私はずっと、助けられてきたんだ。


「私達が、あなたと一緒にいるべき? 前にも言ったけど、もう一回同じこと言ってあげるね」


 私の、大切な人を、大好きな人を、バカにするなんて、絶対に許さない。


「なんで? なんで私達が、あなたと一緒にいなくちゃいけないの?」


 斎藤は何も言わない。目を見開いて、私を見つめていた。


「私からも、あの時と同じセリフを言わせてください」


 後ろから、真白の声が聞こえた。

 きっと真白も怒ってるんだろうな。

 許せないよね。あんな風に言われちゃってさ。黙ってられないよね。


「あなたと一緒にいる必要性が感じられません」


 凛とした声が響く。それは明確な拒絶。あの時、お昼を誘われたあの時と全く同じ。


「それにさ、ミスターあるじってあなたのことでしょ? 配信の時のあのコメントは、正直ないよ」


「『俺の嫁達の配信へようこそ』でしたっけ? 反応するの困るので、ああいうのやめてもらえますか?」


「あ……ぐっ……」


 斎藤は肩を震わせていた。手に持ったナイフが小刻みに揺れている。

 私はそれを横目に見ながら、そっと床に落ちたビニール袋に手を伸ばした。


 もう震えはない。頭も冷静。体も動く。


「ふざけんなよ……! このくそアマがああああああ!!」


 激昂して襲いかかってくる斎藤に、ビニール袋をぶつける。


「あっつ! くそっ!」


「真白!」


 今日頼んだのは、牛丼だ。しかも味噌汁とセット。

 熱々の牛丼と味噌汁を被って怯んだ隙に、私達は廊下を駆ける。


 廊下とリビングには引き戸があって、私達はそれを勢いよく閉めた。


「おら! 開けろ! もうただじゃ済まさねぇからな!」


 突っ張り棒のように横から引き戸を抑えつけてるけど、力負けしてがたっ、がたっ、と引き戸が揺れた。

 引き戸の真ん中にあるすりガラスから、斎藤の醜悪な顔がぼやけて映し出される。


「真白! 今のうちに警察に連絡を!」


「は、はい!」


「くそがぁ! あけろぉ!」


 斎藤はガンガンとナイフの柄をガラスに叩きつけた。

 甲高い音を立ててガラスが砕ける。


 真白が警察に電話をかけているのが見えた。

 でも、私の体力も、もう限界……。


(せめて、真白が連絡をし終わるまで耐えないと……!)


 それでも相手は男。どうしたって力では敵わない。

 引き戸の隙間に手を差し込まれる。力が上手く入らない。


 ふと、下条君の顔が浮かんだ。


 まだ、やりたいことがある。

 約束したんだ。Vtuberでトップになるって。

 こんな所で死ねない。死にたくない。

 私は、私は――



 突如、バァンッと、大きな音が聞こえた。


「て、てめぇ……」


 斎藤の声が聞こえる。

 信じられないものを見るみたいに、その声は震えていた。


 もしかして――

 そんな期待が胸に広がっていく。


 でもそれは、期待でもなんでもなくて、


「あー、なんだ。ちゃんと鍵はかけておくもんだぞ? じゃねぇとこうやって、知らない人が転がり込んでくるからな。なぁ、サッカー部エースのイケメン君?」


 私の大好きな人の声が、今度こそはっきりと聞こえたのだ。

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